軽快なクツ音が扉の前で止まった。
すでに誰だかわかっている孔明は、寝台に横たわったまま目も開けずにいた。
静かに、静かに、扉が開く。

「孔明殿……?おやすみなのですか?」


控えめに声をかけながら入ってきた青年は、返事がないことから孔明が眠っていると判断した。
部屋の奥にある寝台は衝立でしきられ、扉近くからうかがうことはできない。
物音を立てないようにそっとそちらに近づいていく。

衝立の向こうに回りこんで寝台の上の孔明の姿を確かめた。
先ほど執務中に倒れた孔明は、青年が運びこんで寝かせた時と同じ姿勢で、胸の上まで薄物をかけて眠っている。
目を閉じた顔には血の気がなく、整った容貌だけに作り物めいていて生ある人間ではないかのように見えた。

緩やかに結ばれた唇の紅さが際立つ。

それに吸い寄せられるように体を傾けると、懐に収めてあったものが寝具の上に落ち、青年は小さく声をあげていた。
軽いものが絹に触れたところでどれほどの音が出るものでもないが、わずかでも後ろめたいところがあれば針が砂に落ちる音ですら心を脅かす。



 落ち着きのない気配に、孔明は目を開けた。
「……馬謖。」
呼びかければ不意を突かれてうろたえた様子で応えがかえってくる。
「はっはいッ、先ほど羽扇をおいていくのを忘れてしまって……!」
大きな目はまっすぐに孔明を見る。その視線はいつもほんの少しわずらわしい。
信頼も期待も他者から寄せられるものに喜びを感じたことはないからだ。

数少ない例外は、今となっては彼の主君ただ一人だけだった。



「ありがとう。そこに置いてください。」
そう言って寝台のそばの卓を指すと、孔明はその指で眉間を押さえている。馬謖はつい言わずにはいられなかった。
「お忙しすぎるのではないですか?何でもお一人で見ておられるから……」
「私の代わりはいないのだから、仕方がない。」
身を起こし、立ち上がろうとする孔明を、馬謖は肩を押さえておしとどめた。孔明の癖のない黒髪が指に触れる。鼻先をうずめてしまいたくなる官能をかろうじてねじ伏せ、馬謖は言った。
「もう少し、お休みになっていてください!代わりはいないと今おっしゃったばかりではありませんか。」
「放しなさい。」
取り付く島もない口ぶりにひるみそうになるが、孔明が倒れるたびに運んでいるのは自分なのだというひそかな自負が、彼に踏みとどまる力を与える。
「放しません!私が今するべきことは、この国にとってかけがえのない貴方の体を休ませることだと信じます!」
「不遜な。かけがえのないなどという言葉は、ご主君と若君にのみ捧げられるべきもの。はずみとはいえ次にご主君を蔑ろにするようなことを口走れば、ただではおかない。」
「孔明殿……!」
切れ長の美しい目は、一瞬紅く光ったかと思い違いをするほどの怒りを湛えて馬謖を見据えた。
問題をすり替えていることは明白だが、すくんでしまった手にはもう力は入らなかった。



 よろけながら一歩退いた馬謖を一顧だにせず、孔明が寝台にかけて履物を探していると、震える手が足元にそれを差し出した。
「孔明殿。この国に入られてから5年の間、貴方はただの一度もご自分のためにお怒りになったことも、悲しんだこともないのではありませんか?」
うずくまり、馬謖は半ばつぶやくように話しながら孔明の足に沓を履かせている。
「……何が言いたい。」
声音に隠し切れない苛立ちがにじむ。孔明の左足先は馬謖の両手に包み込まれ、ぽつ、と熱いものが白い足の甲に落ちた。
「私は貴方のお役に立ちたいのです。……ですが、孔明殿がご自分の痛みをお認めにならなければ、その傷を慰撫することすらできません。」

「私に傷などない。」

「龐統殿を喪ったことも傷ではないと言われるのですか!」

押し殺した馬謖の叫びにも、孔明は揺らがなかった。
手に預けたままだったつま先を動かして馬謖の顎にあて、うつむいた顔を上げさせた。
「その名を出して、私に何を望む?」



顎と首の境目あたりに、孔明の足の爪が触れている。
他人の足をそんなところへ感じるなど、自尊心の高い彼は想像したことすらなかった。
止まらぬ涙を冷ややかな目に晒され、あれほど熱く胸を突き上げていた哀しみはじわじわと形を変えていく。
「孔明……どの……」
ごく、と唾を飲みくだすと爪の先がやわらかい皮膚に食い込んだ。

小さく引きつれる様な感覚は決して屈辱ではなく痛みでもない。

そこを中心に無数の細かいヒビが走り、体の表面が剥がれ落ちていく錯覚を起こす。

剥き出しになる皮膚の下から現れたものは、直視に耐えないどろりとした赤土色の塊であり、しかもよくよく見れば顔らしきものが付いている。

馬謖の顔だった。

普段は見えないところに棲む欲望の胎児が口を開く。


「私を……私を見てください、孔明どの。戻らぬ方や手の届かぬ方ではなく、私を見てください。」


言葉が感情の昂ぶりを増幅し、馬謖はかき抱いた孔明の足先に唇をあてた。



背後に手をついて体を投げ出すような姿勢で、孔明は貪るようにくちづける馬謖を見下ろしている。
官能は肉欲と同一ではないが、ひたむきな行為はそれなりに興をかきたてる。
だが、まだ足りない。
龐統を戻らぬといい劉備を手の届かぬと言った馬謖を許すには、ざわざわと波立つ己の内側から目をそらす必要があった。

「貴方の望みはそれだけか。」

「それだけです、他には何もいらな……っ」

足にすがるような手を振り払い、さらに下へ伸ばして馬謖の下腹部をさぐると、衣越しでも足裏に熱と硬さが伝わってきた。

「な、あっ……!」



勃ちあがったそこを無造作に踏みつけられ、馬謖は思わず声を上げた。
快感と苦痛が交じり合った衝撃が、腰から背筋を走りぬける。
「あ、あっ、い、痛っやめ……っ!」

「自分の欲望とも向かい合えないような者には、痛いくらいがちょうどいい。」

「ひっ、い、あ、あぁぁっ、んああッ!」

体をくの字に折って馬謖は身悶えた。拘束されているわけでもないのに、孔明の動きを止められない。
敏感な器官を仮借なく蹂躙され、手で押しとどめることもできずにただこみあげるままに声を上げ続ける。
口の端から唾液がこぼれたが、喉の奥はからからに乾いていた。

「も……ゆ、許し、てくださ……」

「もう一度聞こうか。貴方の望みを。」

顔を上げた馬謖の、日ごろは理知の光で輝く目は涙に濡れ、欲情に曇っている。
自分でそうなるように仕向けておきながら、あまりにたやすく堕ちた姿に孔明の精神はまた冷え始めていた。
下がりなさい、と口にしかけたとき、馬謖が言った。

「私は……貴方を満たしたい。」





こんな形は望んでいなかった。
それだけは本当のことだ。

だが気づいてしまった。

孔明が抱える虚無は大きすぎ、ただ待っていたところで埋まるものではない。

自分に目を向けてほしかった。
今そばにいる自分を見てほしかった。







「満たす?」

紅い唇がほころぶ。

「貴方が私を?」

その肩から褶がすべり落ちる。
衣擦れの音を立て、孔明は襟をくつろげた。
内側に抱く闇の深さが肌の白さを際立てる。

「来なさい、馬謖。その願いが叶うか否か、私も知りたい。」







馬謖の均整の取れた身体を孔明の指が這っている。
背中や首筋をつっとなぞられるたびにしびれるほどの快感が湧く。
のけぞり、声を上げながら、馬謖は無我夢中で突き入れていた。
磁器のように白く硬質な印象を与えるその内側は、驚くほど熱く柔軟に彼を包み込む。

ずるり、どろり、と皮膚の下を満たしていくどうしようもない欲望は、次々と淫らな恥知らずな真似をする。

そのたびに孔明の息が、髪が乱れ、そのたびに馬謖は深い沼に身を沈めていく恐ろしさに捕らわれ、そこから逃れたい一心でさらに深みへはまっていく。

ゆすり上げ、突き上げ、名を呼び、やがて果てを迎えようとするとき、馬謖はとっさに孔明の口を手でふさいだ。





もとより孔明は、人が人を満たすなどという甘言にのせられたわけではなかった。
主君ともう一人に対する感情を説明する気もない。
遠慮がちな力で口元を覆う手に、目だけで笑ってみせる。

誰の名も呼ぶつもりはない。

だからそんなに怯えずともいい。


あえて伝えることがあるとすればそれば、



「――――……温かい。」


指の隙間からつぶやけば、大粒の涙が馬謖から孔明の頬に落ちて砕けた。









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