深入りしすぎたと思ったときには、もう遅かった。
江陵城から機を見計らって投じられた兵が、『曹』の旗を背になびかせた騎馬が、あたりを埋め尽くす。
懐へ引き込んでは尾で撃ってくるような、敵のそんなやり方は重々承知していたはずなのに、長引きそうな予感に戦の決着を焦ったか。まだいけると、敵陣へ入り込みすぎた。
遠くで退却の鉦が鳴る。射掛けられる矢の雨の中を、馬体に身を伏せて疾駆する身にはあまりに遠い音だった。
突如、馬が跳ねた。どこかを傷つけられたらしく騎乗者を振り落とそうと荒れ狂う。制御に気をとられている彼を刃が襲い、左肩から切り下げようとした凶刃を咄嗟に腕を上げて受けた。
肩まで痺れるような重い衝撃と熱。
左腕は断ち落とされ、鮮血が噴出す。顔に真正面から自分の血を浴びて視界は赤く染まった。
遅れてくる激痛、気がつけば砕けそうなほど歯を噛みしめていた。
馬上から勢いをつけて振り下ろされた刃は、本来なら腕一本で止まるようなものではなかったが、相手もまた胸を射抜かれて態勢を崩し転がり落ちていったため、それだけですんだのだ。断たれた腕も、断った相手もたちまち馬蹄にかけられて見えなくなる。
狂奔する馬を右腕だけで操るのは熟練の武人ででもなければ無理な話だ。いずれは自分も振り落とされ、骸も肉塊になるだろうと妙に冷えた額の奥で考えたとき、左側から手綱をつかんだ腕がある。
「軍師殿!お怪我を?!」
大声で呼びながら懸命に馬を落ち着かせようとしている男の顔が、かすんでよく見えない。出血が多すぎる。
「血が、」
かろうじて一言だけ告げると男は理解したらしく、とにかく落ちないようにと答えて、ようやく落ち着いてきた馬の鼻面を自陣営へ向けた。
頃合よく敵の攻勢も弱まってきた。籠城しているのは曹仁軍の方でこちらは周瑜が出陣していない。相手にとっては兵力を消耗するだけ損だ、おそらく今日は討って出てはこないだろうと判断したのが見事に外れた。
軍師として見切りを誤った代償は大きかった。
自陣近くまでくると男はいったん馬を止めた。
「止血をいたしましょう。そのままでは周瑜様のもとまでもちません。」
そうだ、この男はよく周瑜のそばにいた将だったと今になって思い当たる。声に聞き覚えがあった。
「聴こえていますか?龐統殿」
うなづいてみせると、男は安堵した様子で、注意深く龐統を馬から下ろし大樹の根の間に座らせた。
「その軽装で、腕だけで済むとは強運です。」
絞れるほど血に濡れた龐統の袖を裂き、傷口を露出させると腰から取り外した竹筒の水をかける。
「……ッ!!」
声を失うほどの鮮烈な痛みに動くことも出来なかった。朦朧としていた意識が一気に引き戻されるが目は焦点を結ばない。頭の芯に閃光がはしる。
男が腕の断面の砂や埃を洗い流し、裂いた衣で縛り終えるまで、龐統は獣のような低いうなり声を上げながら右手で自らの膝を握り締めていた。左腕は燃えるように痛むが、なぜか指先の感覚がまだ残っていて手綱をつかめそうな気もする。もちろん錯覚だ、目をやれば肩と肘の中間あたりから先はなく、縛った後で断面を包んであるが、すでに血がにじみ始めている。
「軍師殿、私の馬に乗ってください。私はこちらで。」
ここまで龐統が乗ってきた黒い馬は、軽傷だったらしく今はすっかり従順になっている。騎馬に慣れない軍師用に周瑜が用意させた馬なので、もともと性質は温厚で従順なのだ。
龐統は、先ほどのこの馬の血走った目を思い出す。
あのとき、乗っていた自分は間違いなく恐怖していた。数尺下の地面に叩きつけられれば終わりだと目の当たりにして、恐れた。きっと同じくらい怖かったのだ、この馬も。
「……初めて……」
「は?何かおっしゃいましたか?」
「初めて命が、惜しいと思った。」
からからと男は笑った。ではお迎えに上がった甲斐がありました。そう言って自分も騎乗しようとした刹那、驚いた顔で動きを止めた。
一瞬の空白の後、唸りを上げて矢が幾筋か射掛けられ、そのうちの一本が黒馬の首筋を音を立てて貫く。馬は高い苦鳴をあげて横倒しになる。同時に飛来した本数から判断すれば、射手はおそらく二人か三人。
「軍師殿、行ってください!」
武人の手が、彼に手綱を握らせた。この馬に乗れ、と言おうとした龐統に首を振り、
「私の役目はあなたを無事に連れ戻すこと、早く、まっすぐ行けばすぐに、凌統将軍の隊に……っ」
背後から喉を射抜かれ口から大きく血泡を噴きながらも、男は最期の力で馬を押し出した。
血に染まった唇がかすかに動く。
そこまでしか見えなかった。
馬は主人の命令に忠実に、土埃を巻き上げて疾駆し始める。背後から耳の下、首元を矢がかすめるが、龐統は手綱を握り直し振り返らずに駆け続けた。
「司令官殿は?」
馬上から尋ねると、駆け寄ってきた衛兵が一際大きな幕舎を指した。
「そちらにおられます。あっ、お待ちを」
制止しようとした衛兵に血まみれの手綱をおしつけ、幕舎に歩み寄ると天幕に手をかけた。
「司令官殿。」
「入りなさい。」
よく通る声が言い終わる前にもう龐統は中に入っている。卓に広げた地図に一人で見入っていた周瑜は、顔を上げて龐統を見た。顔と半身が朱に染まった凄惨な姿に切れ長の目が少し見開かれた。
「無事……でもないようだが、戻ってくれてよかった。周均とは会えたか?君を迎えにやらせたんだが。」
ああそうだ、今になってその名を思い出す。助けられたこと、そしてもう戻らないことを告げると、周瑜は一瞬だけ地図に目を落とし、静かな顔でそうかとつぶやいただけだった。
まだ伝えたいことはあったが、ひどく傷んだ体には余力がなく龐統は意識を失ってその場に崩れ落ちた。
蒼天を風が渡る。丸二日眠っている間に、大風があったと医師に聞いた。今はすっかり穏やかな秋晴れだ。戦場とは思えない清清しさに龐統は柄にもなく目を細めた。
左腕の先から肩まで包帯ががっちり巻かれ、気づかぬうちにできていたかすり傷にも膏薬がぬられている。体中が薬くさい。まだ歩くなと言われたが、二日も寝ていると腰や背中が痛いので、医師が席を外したすきにゆっくりと天幕の外に出てみた。兵卒の営舎とは少し離してあるので埃も少なく、外の空気は快い。見つかるまでここにいようと決めてあたりを見回すと、背後に凌統を従えてこちらへ歩いてくる長身に気づいた。銀色の鎧が朝日を照り返し、真紅の袍が蒼穹に映えている。
ただ歩いているだけで絵になる男だと思いながら、不精にもその場を動かずに周瑜が近づいてくるのを待った。
「気分はどうだ、軍師殿。」
「ご迷惑をおかけした。そう言える程度には、何とか。」
「君はもっと慎重派かと思っていたよ。私の油断だった。」
周瑜は苦笑した。
「さてどうする。癒えるまで戦線を抜けるか?私は、君という人材を荊州から借りているつもりなのでな。危険とわかっていてここにいてもらうことは少々気がとがめる。」
癒えるとは何を指すのだろう。自分が失ったものも、自分のために失われたものも戻らない。
激務をまるで顔に出さない司令官は、絶対にそれを承知しているのだ。
主君を二度も失った経験から周瑜が何を得たのか、何を背負ったのか、未だ主君と呼べるものを持たない龐統には推し量れない。
血泡を吐いた口が最期に呼んだのは周瑜の名だった。
いつか彼の思いを理解できるようになるのなら、周瑜の傍らでその時を迎えるのもいい。
「司令官殿。今回のことで思い知ったが、私には、一人の天下人を生むために万の命を捨てるような策は立てられそうにない。」
何か言いかけた周瑜を右手をあげて遮った。そのしぐさに凌統が不快な顔を見せる。
「虚実のうちままになるのは片面だけだ。それでもよければ、あなたのために献策したいと思う。」
にっと笑うと、周瑜も顔をほころばせた。
「申し出は喜んで受けよう。まずは体力を戻すことだ。それと……無駄死にはするな。」
「承った。」
拱手ができないことを初めて残念だと思った。
了