早春の花の香りが冷えた夜気に混じって流れてくる。深夜に近く、都といえども人の往来は絶えている。
自室で書見をしていた徐庶は、かすかな気配を感じ立ち上がった。
許都に初めて入ったときに与えられた家に、それからずっと住んでいる。妻子はなく年老いた母と二人で暮らしている小さな家に、荒い息遣いを聞いたように思えて、廊下へ出た。
心ばかりの庭に面した廊下は静まり返り、並んだ扉も閉められている。
一見、何の異常もないように見えたが、幾たびか戦場を経験した徐庶は澄んだ大気の中に血の匂いを嗅ぎ取っていた。
「―――誰かいるのか。」
応えはない。庭に目をやると、闇の中にほの白く浮かんでいる小さな花の群れが風に揺れている。人が潜んでいる様子はない。自分ひとりであれば多少の不審事は放っておくが、眠っているであろう母親になにか間違いがあってはいけないと思い、徐庶は家中を一回りしてみることにした。
手燭に明かりをうつし、廊下をぐるりと回ったがやはり変わったところはなく、血の匂いも最初に感じたもの以外はすっかり消えてしまっている。念のために門まで出てみると、往来の遠くのほうで数人の男が高声にやりとりする声が聴こえる。内容はよく聞き取れず、酔っ払いのけんかの類らしい。
近づいたり遠ざかったりしている声に背を向けて屋内に戻った徐庶は、今度は使っていない部屋まで点検し、やっとこの家に今いるのは自分と母親だけだという結論を下した。何かに翻弄された、まるで化かされたような心地で自室の前まで戻ってくると、変事はそこに生じていた。
先ほどまで何もなかった自室の扉の前に、小さな塊が置いてある。
近くによって灯りを差し向けてみると、それは紫檀の箱だった。四方は四寸ほど、厚みはそれよりやや低い。そして、その脇の床に小さな黒点。
徐庶が血の匂いと感じたのは正しかった。この箱を運んで来た者は怪我をしており、手当てを受けるわけにもいかない事情があるらしい。おそらく徐庶が部屋から出てきたときはすぐ近くにいて、部屋の主が徐庶であることを確めてから置いていったものと思われた。
拾い上げて顔を近づけると、紫檀特有の香りの奥に別の匂いが現れ、消えていく。
とらえどころのない、追えば追うだけ遠ざかるその性質には覚えがある。
まさか、そんなはずはないという思いと、彼ならば不思議はないという確信が交互に脳裏を占める。
震える手でふたを開けようとした、まさにその時、訪なう声がした。
門前が明るい。城の衛士の恰好をした訪問者たちは各人が松明を持っている。
徐庶が姿を見せると、一人だけ松明を持たずに前列にいた文官の身なりの男が進み出た。
「夜分すまないが、この辺りに他国の間諜が潜んでいるという情報があった。もしその者を見たり、気づいたことがあったら教えてはもらえまいか。」
それでは、先ほど聴こえた声はこの衛士たちだったかと徐庶は納得した。長く流浪していた劉備軍が蜀の地に攻め入り、ラク城までおちたとかおちないとかいう急報がもたらされたばかりで、魏国の頭脳ともいうべき者たちはより正確な情報集めにやっきになっている。同時に国内に張り巡らされた諜報網は狭まり、怪しい振る舞いをする者はことごとく引き立てられ、尋問されていた。
「お勤め、ご苦労様でございます。しかし劉曄様。この屋には私と母のほかには誰もおりませぬ。変わったこともなにもございませんが。」
「徐庶殿のお住まいでしたか。」
初めて気づいたような言葉だが、一手に諜報を取り仕切るといわれている劉曄が、元劉備の軍師を務めていた徐庶の居所を把握していなかったわけがない。兵の一人が劉曄になにか囁き、うなづいた目が徐庶の左手に向けられた。その手には小箱がおさまっている。
じわりと掌に汗がわいた。
追われた間諜が苦し紛れに置き去りにしていったものなら、そもそも徐庶にあてられたものでない可能性すらある。
「徐庶殿―――」
呼びかけに手がこわばる。これは絶対に自分へ送られたものだ、決して余人の手に渡してはならないのだという強い思いがこみあげ、徐庶は静かに劉曄の冷厳な目を見返した。
「その、箱は……?」
「私のものですが。」
「失礼、私たちが追っていた者もよく似た箱を持っていたので。差し支えなければ、中を見せていただきたいが。」
「―――それはできません。」
断ったとたん、無言で衛士たちが動いた。門前で劉曄の背後に控えているのは五人だけだが、呼べばすぐに大勢あつまってくるのだろう。徐庶を取り押さえ、引き立てていくために一歩前に出た彼らを、劉曄が手で制した。
「理由をお聞かせ願いたい。」
何とでも言い抜ければいいと自分を叱咤しても、適当な言葉がでてこない。冷や汗が背中を滑り落ちるが口の中はからからに乾き果て、さらに声が出にくくなっている。
黙り込んだ徐庶に向かって、衛士たちがまた一歩進む。
出仕している役所と、与えられた家を往復するだけの暮らしをもう五年余りも続けている。どこで終止符を打とうとかまわないが、母にまで累の及ぶことがないように計らってもらうことは可能だろうか。そこまで徐庶は考えた。
「劉曄様ー!」
身軽な急使のなりをした男が通りを駆けてくる。劉曄との間に立ちふさがろうとした衛士たちをかきわけ、急報!と告げた。
徐庶などその場にいないかのように行われた報告で、箱の中身を悟ってしまった。どうあっても渡せないという覚悟がどこから湧いたものだったのか。開けて見せることすら拒否する気持ちはなんだったのか。
できれば、知りたくはなかった。
箱の中身を見て勝手に推測したことならば、何かの間違いあるいは思い過ごしに違いないと願う余地も残される。
だが、彼のことを知らぬ者の口から語られる事実は、すでにその死が過去のものであることを認識させた。
か細い一縷の望みすら断ち切り、現実を突きつけるやり口は、およそ孔明らしくなく、紛れもなく孔明のものであるともいえる。
徐庶が事実から思考を逸らし、都合のいい願望に支配されることのないように。
荊州で過ごした日々と、劉玄徳に引き合わせたことに孔明なりに報いたということか。
「劉曄様。」
落ち着きを取り戻した徐庶の声音に、劉曄の表情はほんのわずか曇った。
「この中には、友の形見が入っております。たとえどなたにも、お見せするつもりはございません。」
友の形見と、軍師としての自分自身の墓標。
覗くことも奪うことも許さぬという意思表示に、衛士たちはざわめいた。引き立てるべし、という声もする。
徐庶は怯えの色も見せず、ただ劉曄と向き合って立っていた。捕り手に囲まれるのは初めてではない。先ほどまでの極度の緊張が失せたからか、寒さや星明りや花の香りが徐庶の感覚に戻ってきた。
これまでにないほどの鮮やかさをもったそれらは、お前が地上から消えても刻はめぐり夜は明け、花も咲くのだと教えているかのようだった。
「……わかりました。」
劉曄がそう答えると、ざわめきはやんだ。大半の者が呆気に取られた表情で劉曄を見ている。
「貴方は丞相がつれてこられた方。私には何を強制する権限もありません。しかし、御身の安全は丞相によって守られていることをお忘れなきよう。」
「忘れはいたしません。」
礼をとる徐庶にそれ以上何も言わず、劉曄は踵を返して去った。
何か言いたげだった衛士たちも、あわててその後を追っていく。
撤収はあまりに素早く、無人の門前は静まり返って先刻のことはすべて夢であったかと思わせる。
門を閉め、徐庶は家へ入った。
自室の明かりの傍で開いた箱の中には、綿にくるまれた帯飾りがおさめられていた。
彫りこまれた図柄がところどころ曇っているのは血をぬぐった跡だろうか。
取り出すことはせず、そっと指先で表面を撫でただけで、徐庶は蓋を閉めた。
離れて随分経つ自分ですら、遺品を目にしているだけでも灼けた石を飲んだようにつらい。近く過ごしてきた孔明の痛みや哀しみは、思い及ぶべくもない。
この国で何の縁故もつながりもない自分が、書簡など出しても無駄なことだ。
「……ぐ……っ、う……」
ぎりぎりと奥歯を噛み締めてもなおこらえきれない慟哭なら、遥か天嶮を越えて孔明のもとへ届くかもしれなかった。
出仕している役所と与えられた家を往復するだけの暮らしを、これからもずっと続けていく。
この箱に魂をうずめて。
徐庶は数年後に病を得て没した。
葬る際に、生前大切にしていた小さな箱を棺に入れようと家族が探したが、それはとうとう見つからなかった。
了