乾いた路を歩く。足元に砂埃とわずかに紅い点がまじる。

楼台から郭嘉の姿を見つけ、なんとはなしに目で追っていた張遼は、その紅点を見逃しはしなかった。
共に練兵を行うはずだった傍らの副官に告げる手間も惜しんで、楼台を駆け下りる。
驚いた副官が呼びかける声も、ほとんど耳に入らぬ勢いだった。

 郭嘉のいた場所までそう離れているわけではないが、見失えば取り返しがつかない思いに駆られて張遼は急いだ。


「郭嘉ッ!」

角を曲がったところで姿を見つけ、名を叫べば、前を行く背中はすぐに止まった。だが、振り向かない。
「郭嘉……」

「聞こえております。なぜ、追ってこられた。」

すべての気遣いを拒絶するような声音に、張遼の足も止まりかける。だが郭嘉は張遼の中で軍師という枠を越えた存在になっている。
ここで引き返すわけにはいかなかった。
「練兵が始まる刻限でしょう。お戻りに……ッ!」
郭嘉は二、三度激しく咳込んだ。ひきつるように震える背中を、張遼はひどく痩せたと感じた。
もともと長城を越える行軍に耐えられるのが不思議なほどの体つきではあったが、このところ一段と痩せた。

「血を吐くのは何度目だ。」

「……数えておらん。」

袖で口元を拭っているらしい。依然として振り返ろうとしない郭嘉を、張遼は痛ましい思いで見つめた。
武人以外に、初めてこの武をあずけた男が病に侵されている。

「殿はご存知なのか。」

尖った肩がぴくりと動いた。
知らせてはいないのだろう。だが曹操はすでに気づいているような気がした。

「戻れ、張遼。今あんたのすることは烏丸兵をより精強に仕立て上げることだ。」

「兵がいくら強くとも、軍師がおらねばどうにもなるまい。」

張遼の口からそんな言葉を聞き、よほど驚いたのか郭嘉はこちらを向いた。
まるでこの土地のように乾いて白茶けた顔色は、病にはまったく疎い張遼が見ても、こんなところを出歩くべきものではない。
唇の端に拭いきれなかった血がこびりついている。張遼は近寄ると、手を伸ばして指先でその血をこすりとった。
柔らかだが、冷たい唇だった。

「……俺が死ねばあんたが指揮をとればいい。あの兵はもう、『もと呂布の騎馬軍』ではなく、張遼将軍の兵だ。手足のように動かせるだろう。」
話すうちに郭嘉の頬がわずかに紅潮してきた。
「もはや武威だけで兵を率いる時代は終わったと思うなら、あんたがその魁になれ!」
とうてい病人とは思いがたい光が、張遼を射抜くほどの強さで大きな目に宿っている。

「だが俺は、郭嘉の策で動きたい。」

郭嘉の口元がきつく引き結ばれた。苛立っているようにも、こみ上げる感情を抑えているようにも見える。しかし張遼は軍師の感情の機微には頓着せず、分厚い掌を郭嘉の頬にあてた。

「この頭が生み出すまっさらな軍略と、あの烏丸の騎馬兵と共に戦をしたい。俺の武が誰かによって引き出されることがあるなら、それは間違いなくお前だ、郭嘉。」

迷いのない直視を郭嘉は受け止めた。冷たい頬もくっきりと浮き出した鎖骨も衰えゆく生命の象徴に他ならないが、微塵も弱さを感じさせない。己の軍略を形にする執念がこの強さの源かと張遼は考える。それは知らず、精神が肉体を越えるか否かという命題にも繋がっていく。

肉体を極限まで鍛え上げるには強い精神力が必要だが、それは克己心、自制心といった類のものであり、理性だけでここまで凛としたまばゆい輝きを示す男は見たことがなかった。

死なせたくない。
その言葉のみが痛烈にわきあがる。

いっそこのまま抱え上げ、馬上にくくりつけて業まで送り届けてしまおうかとすら思う。
療養して快癒するものかどうかは見当もつかないが(そもそも療養という行為自体が張遼にはよくわからなかったが)、この潤いのない北の果てよりも、業のほうが弱った身体には適しているだろう。

錯綜している張遼の思考を読み取ったのか、郭嘉の表情がかすかに和らいだ。

「不穏なことを考えているな、張遼。」

「……。」

「これより殿に業へのご帰還を進言申し上げてくる。あなたも任務に戻られよ。」
烏丸の兵を、練って練って練り上げてくれ、と言って笑った。
「我が軍略のために。」






 秋の始めに業に戻ると、郭嘉はみるみる衰弱していった。雪が舞う頃には出仕はおろか起き上がることすら難しくなり、張遼が訪れたときも薬湯の匂いのする寝台の上で彼を出迎えた。
北伐の時よりもさらに痩せたものの、目の光だけは失われていないことに張遼は驚きと安堵を感じた。
まるで健康な頃と変わらない調子で郭嘉が言った。

「いよいよ年明けには水練だな。兵の仕上がり具合は?」

「上々。あとは軍師だけだ。」

「私が消えたところで、我が軍略はあなたとあなたの軍に宿っている。それでいい。」

静謐でありながら、身内には青白い炎が燃えている。今の郭嘉を、張遼はそう理解した。
あれほど望んだ烏丸兵の水練を、その手で指揮できない悔しさで歯噛みしているのではないかと案じた末に顔を見に来たが、郭嘉はそれをとうに越えている。生死すらも。



「張遼将軍。初めて烏丸族の斥候にからかわれたときのことを覚えておいでか。」

「覚えている。軽々と跳んでいたな。」

忘れられるはずもなかった。人馬が一体となって一個の生き物であるかのように自由に駆け過ぎて行く姿。
心のうちで未だその名を呼び捨てられぬ、最強と信じた男をまざまざと思い起こさせる光景。
あの一瞬に、どれほどの想いが去来したのか自分の胸中とても計り知れない。

郭嘉はうなづいた。そしてさらりと言った。

「あなたは、呂布を越えたと思うか。」

受け取りようによっては容赦のない問いであり、武人としての価値を量る無礼極まりない問いでもある。
だが真摯に問いかけるその表情に、張遼も真剣に答えた。

「死者は越えられん。あんたが死ねば、俺の中に越えられんものが一つ増える。」

「俺を越える必要はない。飲み込んでくれればいい。あんたは知らないだろうな、張遼将軍とその軍を、俺が、どれだけ……ッ」

喉に何かが絡むような音をたてたあと、前のめりになった郭嘉の口元から血がこぼれた。

「どれ……だけ、いと……」

「話すな!もう話すなッ!」

失態だ。己の臓腑を抉られたほうがましだ。常と変わらぬ様子に、長く話しすぎた。
自責の念が張遼をキリキリと締め上げる。

「医師!」

声に驚いた医師が、転げるように回廊を駆けてきた。





 せわしく脈を取り、薬湯の支度をする医師の背中越しに、郭嘉は張遼を見た。
言いかけたことだけは、せめて最後まで伝えたい。おそらくもう、次の機会はないのだ。
血の匂いのする口を開きかけたとき、張遼の腕がすうっと上がった。

軍礼。

「最強の軍師、郭嘉。お前の軍略を、必ずこの中華の地に打ち立てよう。」

それだけ言うと、張遼は身を翻して歩き去った。きっぱりとした動作には未練など一片足りとて見当たらない。

力強い足音が聞こえなくなるまで、郭嘉は耳を澄ましていた。

薬湯を捧げた医師が、ふとその器を傍らに置き、温めた布で郭嘉の口元をぬぐう。
唇が感じた温度は、北の果ての乾いた国で同じ場所に触れた武骨な指を思い出させる。



全身全霊かけて愛おしいと思った武人、最初にして最後の我が将軍とその兵たち。
郭嘉の魂魄が肉体を離れるときが来たら、共に中原を駆けよう。





「郭嘉殿?笑っておられるのですか?」


「ああ。よい心地だ。」


そのときまで、今はしばしの別れだ。











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