指先でつまんだ一寸ほどの白っぽい塊は、すこし力が入っただけでもつぶれてしまうため、相手の口に入れるまで張遼はなかなか気を遣う。
つぶれていたからといって文句を言われる筋合いではないのだが。
業へ送る竹簡に、細かい字でびっしりと何事かを書き連ねている軍師の口元へそれを差し出すと、目は手元に落としたまま器用に塊だけをくわえ取る。
羊の乳を発酵させて固めた醍醐は、臭いといい独特の酸味といいクセが強い食べ物だが、味などに頓着しない張遼はまだしも、郭嘉が好んで食べるとは意外な結果になった。
結果に対する事の起こりは曹操で、郭嘉による献策の場に珍しく張遼も居合わせたときのことだった。
「江南艦隊に対するに!」
背筋を伸ばすというよりもそっくり返った姿勢で発される郭嘉の発議の途中で、曹操は何かを郭嘉の口に放り込んだ。
「な……!!」
とっさに口を閉じてしまった郭嘉は、大きい目をさらに見開いて曹操に憤然たる顔を向けたものの、さすがに主君の前で口中のものを吐き出す気はないらしく、もぐもぐと顎を動かしてひとまず飲み込んだようだった。
「……何をなさるんですか殿ッ!!そもそもこれより私が申し上げようとしておりましたのは、その兵力においても移動距離においても、中華の誰もが見たことのない規模での遊軍!殿との意思の疎……はうッ」
曹操がいきなり鼻が触れそうなほどの至近距離まで顔を近づけ、郭嘉は息を吸い込むような声を立てて黙った。
「すまん。続けてくれ。」
「つ、続けろと仰られましても……!」
後ろに下がろうとしているようだが、曹操の手が肩をつかんでいるため距離がとれない。郭嘉は赤面したまま目を泳がせている。
(あれでは口を開けまい。)
軍議の場などには興味のなかった張遼は、驚きつつ呆れつつ、曹操と郭嘉を真横で見ながらなんとも身の置きどころがない。
郭嘉の献策がどうであれ、曹操がすべてを委ねるつもりでいるのは明らかだ。
だが曹操が決してふざけ半分ではなく、むしろ何かを探り取ろうとする表情で郭嘉に向き合っている点が気になる。強いて言えば、それが張遼をこの場にとどめる理由だった。
「殿!わが軍略をお聞きになる気はおありなのですか!?」
ついに癇癪をおこした郭嘉が叫び、その口にまたしても醍醐が飛び込んだ。
「軍議とはいつもああしたものか。」
「そんなわけがあるまい。……と言いたいところだが、概ね似たようなものだ。」
明日には満ちるかという月が照らす柳城のはずれで、二人が飲み始め半刻ほどが経つ。宮殿から少し離れたこの場所には、腰を下ろすのにあつらえたような平たい大石が据えられており、その周囲の乾いた土にはまばらに草が生えている。そこに、石の上から沓が落とされた。
「殿は昔っからああだ。だいたい配下に向かって王になれとは、どういう仰せなのだ。」
裸足になった郭嘉は、足を組んで座りなおすと、額の生え際をばりばりとかきむしる。落ちてくる前髪をうるさそうにかき上げ、
「詩文も舞いもわからぬ!俺は軍師でしかない。ただ戦によってのみ我が才は研ぎ澄まされる!」
その点我々は似ている、そう言って郭嘉は杯を掲げた。
月光を浴びたその顔は青白く輝き、薄氷のような危うさをはらんでいた。
「だが政といわれれば、それについて考えざるを得ん!……あんたならどうだ、張遼将軍。」
これまでほとんど無言だった張遼は、ゆったりと笑った。
「考えろと言われても無理だ。」
郭嘉の物足りなさそうな様子に、さらに言い足す。
「だが、お前と酒を飲むのは楽しい。」
一拍おいて、郭嘉が赤くなったのが夜目にもわかった。
なぜそこで赤くなるのだと思いつつ、張遼は黙々と杯を空ける。
やがて郭嘉がぽつりと言った。
「昼間のあれは、なんだ。」
「あれ?」
「殿が、」
「醍醐のことか。ここにあるぞ。」
懐から取り出した薄い箱は少し潰れている。曹操が手ずから醍醐を入れて張遼に渡したものだが、間食する習慣がないので懐にしまわれたままだった。
蓋を開け、指先程度に丸められた乳色の塊がいくつか入っているのを見せると、郭嘉は一つつまみとってまじまじと眺めた後、口に入れた。
「……酒のつまみにはなるな。」
「そうか。」
残りを郭嘉の前に箱ごと置くと、大きな目が張遼と箱を見比べ、
「あんたはいらんのか。」
「童の頃、体にいいのだと散々喰わされた。嫌いではないがもう一生分は喰った気がする。」
郭嘉は弾けるように笑った。
笑いながら、説得力があると言い、また笑った。
(郭軍師、なんと無防備な顔で笑うものだ。)
いつしか張遼自身も苦笑していた。都を遠く離れ、異境の空の下にいることが人を変えるのか、少なくともこんなことを他人に話したことはなく、声をあげて笑う郭嘉を見たこともなかった。
酔いも手伝ってか、ひとしきり笑った郭嘉は、醍醐をもう一粒とって張遼に渡しながらつぶやいた。
「体にいい、か。なるほど。」
その静かな声音も、曹操が醍醐を食べさせたがった理由も、張遼が気づくのはもう少し後のことである。
今はただ郭嘉の表情の変化を追うのみで、杯を口に運ぶことも忘れていた。
先ほどの無防備な躁状態は月光が見せた幻か、夜空に向かう横顔は寂寞として見える。
惹かれている、と素直に思った。
それは海中へ深く潜って行く碇のように、普段は鎧で覆われた心の奥深くに届こうとする。
己の武をひたすらに追い求めようと決め、それだけで満たされているはずの心にずぶずぶともぐりこんでいく。
峻烈な軍師に惹かれたのは今が初めてではないと、張遼自身が一番よくわかっていることだった。
何を意味するのか考えが至る前に本能的に封じ込めた心の一部がざわめき、一つの結論を成していく。
制止も間に合わない速度で、その思いはあらわになる。
戦にしか興味のない目の前の男に、どうしようもなく惚れてしまっているのだ。
鎧を脱ぐのではなかったと張遼は思った。鎧があれば将軍として軍師との距離を測れるが、平服ではそうもいかない。しかも郭嘉は、漢を出て烏丸の地に入った頃から柔軟になってきている。以前は他者への関心も執着も薄そうに見え、己の周囲に氷の壁をめぐらせているような印象すらあったが、ずいぶん多彩な表情を見せるようになった。
「張遼。」
「……何だ。」
「つぶれているぞ。」
郭嘉の目線につられて手元に目をやると、先ほど渡された醍醐が指の間で平たくなっている。
非常に情けない気持ちに襲われていると、対面から伸びてきた郭嘉の手が張遼の手に重なり、その指を開かせた。まるで原型をとどめていない白く平らな物体を見たとたん、郭嘉はクッと妙な音をたててうつむいた。張遼の手を握ったままの指に力が入り、肩が細かく震えている。またも笑っているらしい。
「笑い上戸か、郭嘉。」
いささか憮然として言うと、笑いをこらえた震える声で返事があった。
「張遼……」
「何だっ」
「俺と酒を飲むときは、これからもたまには鎧を脱いでくれ。」
「……何?」
聞き返しても答えはなく、郭嘉は顔を上げない。
「郭嘉……?」
「……」
「郭嘉!おい!」
「−−−−−−−……」
寝息が聞こえる。
「……つぶれてるのはどっちだ。」
大きく一つ息をついて、張遼はまずつかまれたままの手を自由にしようと、郭嘉の手首を持った。
「ん……」
かすかに郭嘉の手に力が入る。抗うほどのものではない、ほんのわずかな動きが張遼の手に伝わり、そのまま張遼は動けなくなった。
一握りにできる手首のぴくりと脈打つ感覚は、生身の郭嘉をこれ以上ないほどの生々しさで張遼に刻み込む。
将軍も軍師もこの場にはいない。ただの張文遠という男がいるだけだと思い知らされる。
「……あまり人を惑わせるな。」
いささか乱暴にもみえる勢いで立ち上がった張遼は、そのまま郭嘉を背負い上げた。
ぐっすりと眠り込み、全身を預けてくる重みと体温に口中の渇きを感じながら、腰を下ろしていた大石からゆっくりと下りる。
欲っしたものをがむしゃらに奪いつくすだけならたやすい。奪うよりも背負って歩くことのほうがはるかに難しく、つらい。曹操のもとへ来て、なまじそんなことを知ってしまったばかりにこんな羽目になる。醍醐の箱を懐に無造作に突ッ込み、張遼は何をどうしたいのかわからない自分に苛立った。たった今こぼれた言葉さえ、直感的すぎて心もとない。惑わされて、それでどうしようというのだ。
自分の背で眠る惑いの根源を一度ゆすり上げ、居室へと歩き出す。少し距離はあるものの、郭嘉の重さなど何ほどのものでもない。
足元はやけに白く照らされ、まるで月へむかって歩いているようだった。
それから張遼は、まれに軍師の執務用にあてられた室へ現れ、郭嘉に醍醐を食べさせるとまた立ち去っていくようになった。箱が空になると、曹操は醍醐を詰めなおす。空にするからおかわりがくることに張遼は気づいていない。
郭嘉の元に来てから立ち去るまでに一言も発さないときもあり、その威圧感に耐え切れず他の者達は我先に室を出て行くため、たいてい張遼と郭嘉だけになる。
塊をつまんで差し伸べた指先にわずかな痛みが走った。郭嘉が張遼の指ごと醍醐をくわえている。
「それは食い物じゃない。」
「……そのようだ。」
郭嘉は筆をおいて衣の袖で張遼の指をぬぐい、立ち上がって伸びをした。そのまま少し反って、背後にある窓から夕空を見上げている。いい加減にあわせた襟元からのぞく鎖骨や薄い胸板から、張遼は目をそらした。
「今夜はいい月が出そうだぞ。飲みに行こう、張遼。」
「ああ。お供しよう、軍師殿。」
行動を共にするのは必要最低限に抑えたい気持ちと、常に傍らにありたい気持ちを比べれば、前者のほうに弱さがあるように思えて張遼は誘いを断らない。そんな感情にまで強弱を持ち込まずにはいられない自分を、凡愚もいいところだと考えてはいるが。
疚しいところも、なくはない。今、頭をそらして首筋から胸板まで無防備にさらす郭嘉を、正視できなかったのがその証拠だ。
曹操ならば詩や舞いで昇華することもできるのかもしれないが、張遼が己を発露する場は戦場しかなく、今はこの混沌を抱え込んでいくほかない。
ちらりと目をやった指先には、もうわずかなくぼみも残っていない。
「痛むのか?」
寄ってきた郭嘉が張遼の指を取って顔を近づけた。郭嘉の手は白い。軍師として戦場に出るとはいえ、陽光の下で毎日調練をするわけでもないから、やはり文官の手には違いない。手首に髪がさらりと触れるこそばゆい感覚。
「ああそうだ、鎧は着てくるなよ。張遼は素顔のほうが面白いぞ。」
張遼は、何でもいいからその手を離せと思いつつ、言われていることをよく理解もしないままうなづいた。
繋がっている指先を通して、考えていることが伝わってしまいそうで落ち着かない。小心という言葉には最も縁遠かったはずの自分が、ただ惚れていることを自覚しただけでこの有様か、と自虐的にすらなりはじめている。
周囲は静かで、足音一つしない。先ほどまで気づきもしなかったその静けさが、今は逆に耳を痛いほど刺激する。
気づけば、郭嘉が不審げな面持ちで見ていた。
「どうした?」
「……いや、何も。」
「ぼうっとしていたぞ。では今夜、あの場所で。」
わかったという張遼の答えを聞いてから、ようやく郭嘉は手を離し、小声で笑った。
「まるで逢引のようだ。」
「ならいいがな。」
思わずそう言ってしまってから、張遼は青龍刀に己の頭をぶちかましたい衝動に駆られた。
気の利いた言いくるめ方など一切思い浮かびもせず、曹操軍きっての軍師に舌先だけのごまかしが通用するはずもない。
このまま何もなかったように室を出てしまおうと決めた途端、顔を真ッ赤にしている郭嘉に気づいた。
(だから何故そこで赤面するのだ!)
どう判断のしようもなく、背を向けると
「今夜」
とだけ告げて部屋を出た。
檻の中でぐるぐると同じ場所を回っている獣のようだった思考に、一つの方向が与えられてしまった。とうの昔にその扉は開いていて、張遼が見ないふりをしていただけかもしれないが。
張遼は、酔いつぶれた郭嘉を背負って歩いた月の道を思った。
取るに足らぬ小石の一粒一粒までもが月光で洗われて白く輝き、昼間の乾いた砂埃だらけの道とはまるで違っていた。
開いた扉の先にあるのがあの道ならば、進み始めてもいい。
濃くなる夕闇の空に、月はすでに姿を現している。