今夜、とかろうじて一言告げて出て行く広い背中を、郭嘉は呆気にとられて見送った。
逢引という艶めいた言葉をたちの悪い例えだと苦笑でもされるかと思ったら、独り言のようにそうならばよい、ときた。
そこは軽く流すところじゃないのか、むしろ流してほしい。
あんな顔で、そうならばよいとつぶやくことが、どういう意味を持つのかあの男にはわかっているのだろうか。
呆れつつも郭嘉の顔は熱い。
袖ではたはたと扇いでみたところで、熱は引きそうにない。
張遼の指の感触が唇と歯に残っている。乾いた硬い指先が、重い青龍刀をどれほど意のままに操るか、郭嘉は間近で見て知っていた。
かじってやったのは、わざとだ。
もちろん痛がるとは思っていなかったが、予想以上に平然としているのでこちらも間違えたような振りをするしかなかった。
張遼はそれを信じたようだった。郭嘉にはそこが信じられない。どう間違えたらあの太い指をかむことになると思っているのか、もしかすると間違えてはいないことをわきまえたうえでの余裕なのか、張遼からは読み取りにくい。
---------おかしな男だ。
軽くため息をつくと、咳が出た。あばらの内側の絞り上げられるような痛みにはもう慣れてしまったが、なぜか今日は、いつ崩れるとも知れないこの体がひどく心もとなく感じられた。
咳がおさまってから、口元を押さえた手にわずかについた血を拭おうと室内を見回したが、適当な布がない。装飾的なものは極端にない城なのだ。
洗いに行ったほうが早いと決めて部屋を出、郭嘉はそこで一瞬立ちすくんだ。
廊下の向こうから曹操が歩いてくる。
「郭嘉!書き付けが見つかったぞ!」
あえて手を隠すようなことはせず、郭嘉は自然に問い返した。
「書付とおっしゃいますと?」
「あの首領が遺したものだ。お前が興味を持っていた用兵術とは少し違うが……」
鋭い目がふととまる。
「手をどうした?」
この方はいつも、気づいてほしいことと気づかずにいて欲しいことを同じように指摘する、と郭嘉は思った。
「墨をつけてしまいました。洗いに行くところだったのです。殿はわざわざ私に書付のことを知らせるためにおいでくださったのですか。」
曹操は郭嘉の手をじっと見つめたあと、視線を顔にうつした。
「顔色が悪いな。」
「夕闇のせいでございましょう。」
郭嘉もまた曹操から目線を外さずに、言い切った。
「……夕闇か。」
「はい。書付はどちらに?」
「あいつが巣のように使っていたという岩穴から見つかった。今届いたところだ。ここに運ぶよう言っておくぞ。」
暗にじっとしていろと言っている気持ちを汲み取りながらも、郭嘉は首を振った。
「殿。何卒、お気遣い無用に願います。」
本当にお前は強情だ、と呆れたように言うと、曹操は背を向けた。
「軍議の間に置いてある。先に行くから、手を洗って追いついて来い。」
「ありがとうございます!」
目的の場所へ急ぐ沓が触れたところから土埃があがる。夏だというのに湿度がない。
すっかり遅くなってしまったと、郭嘉は丸い月を見上げた。中天まではいかないが宵の口はとうに過ぎている。
トウトツの書付を読むうちに水練について思いついたことがいくつかあり、その場で曹操に献策しているうちにずいぶん刻が経ってしまった。
ほどなく、いつもその上で酒を酌み交わす平たい大岩と、弧影が見えてくる。
「張遼!」
声をかけて近寄ると、張遼は片手を上げて応えながらも、どこかぎこちない。
「すまん、待たせた。……なんだ、驚いたような顔をして。」
酒器を挟んで向かいに腰を下ろし、行儀悪く片足はぶらりと垂らしたままの郭嘉に、いつもの寡黙さとは違う口ごもり方で張遼は言った。
「ああ……今夜は来ないかと思っていた。」
何故、というより先に酒を注がれ、郭嘉は黙って口をつける。
目を合わせたり反らしたりしている張遼の様子から、他に言いたいことがあるのは明白にわかるが、何を言い出すか甚だ不安でもある。
「……」
「昼間は変なことを言ってすまなかった。」
無難だ。
気まずくはあるが、無難な言い方でいったんは安心したものの、その一言のためにでかい図体でそわそわしていたのかと思うともうダメだった。
「張遼」
自分でも気持ちが悪いほど穏やかな声が出て、そんな風に人を呼べることに郭嘉自身が少し驚いた。
「な、なんだ。」
自分が驚くくらいなので、張遼にはもっと衝撃的だったのだろう。郭嘉が間を隔てる酒器を脇におしやり、すぐ傍に場所をうつすと、張遼の手のさかずきが揺れた。日ごろ物に動じない姿を見慣れているだけに、気の毒にすらなりかけたが、ここでうやむやにしてしまえば機会は二度と訪れないかもしれないので見なかったことにした。なにしろ、あまり時間は残されていないのだ。
「張遼、謝ってもいいのか。」
「なに……」
戸惑う相手に追い討ちをかける。
月に薄く雲がかかった。
「気の迷いで心にもないことを言ってしまったということか。」
「そんなことはない!」
渾身の否定が素直に嬉しい。
何事もなかったように、ただの冗談だったと笑うことを張遼は望んでいたのかもしれず、秘めておくべき心を揺さぶって月下に曝そうとするのは無粋の極みでもあるだろう。
理性の声から耳をふさぐかのように、郭嘉は頭を張遼の胸板におしつけた。
「郭嘉?!」
「言いたいことがあるなら全て言え。俺はもう、たいして生きられん。」
息を呑む気配が伝わってきた。
「郭嘉、ちゃんと顔を見せてくれ。」
大きな掌がそっと肩を押し、郭嘉はしぶしぶ張遼を見上げた。真剣な困ったような表情は張遼によく似合っていた。
「なんだ、顔を見ていては言いにくいだろうとわざわざ下を向いたのに。」
「おまえに惚れていると背中に言えば通じるのか。」
鳥肌が立ちそうな陶酔に言葉もなく、郭嘉は膝立ちになると両腕に張遼の頭を抱え込んだ。
その肩にあった張遼の手は少しの間行き場を失い、やがて郭嘉の腰の辺りに落ち着いた。
月にかかった雲が流れまた白い光が差し始めるまで、無言の抱擁は続いた。
「……郭嘉。俺は自分で確かめたもの以外信じない。」
「……ああ。」
「今こうして脈打っている体が、そのうち冷たくなるなど、俺は信じんぞ。」
言葉ほどには張遼という男は愚直ではない。
伝えたことは間違いではなかったと思いながらも、痩せた体にすがりつくような腕の力からその胸中を慮れば、詫びも気休めも出てこない。
「張遼」
ただ呼びかけた。
言うべきこともないのに呼びかけてどうするのか、以前の自分なら甚だ非効率的だと思ったはずだった。
胸元に抱き寄せた髪を首筋を肩を、ゆっくりと撫でた。
鎧を脱いでも、鍛えられた体はかたく張り詰め、確かな熱を持って今ここに生きている。
それだけのことが、どうしてこうも愛しいのだろうか。
「張遼」
撫でる手を武骨な手が押さえた。
「もう、呼ぶな。薄みっともないことを口走りそうだ。」
「だから全部言っておけ、後悔するぞ。」
つとめてさらりと答えると、
「ここで愛想をつかされても困る。」
張遼はそう言って郭嘉に微笑を向けた。
戦場で数多の死に触れてきた経験が、今抱え込んでいる肉体の残り時間を悟らせてしまったのだろうと郭嘉は気づく。
だから彼は笑うしかないのだ。
守ることも奪い返すこともできないと図らずも確かめてしまった以上は、郭嘉にそうと知られないように笑って見せるしかない。
「張遼……」
「……呼ぶなと言った。」
目を伏せた張遼に、郭嘉はささやいた。
「では、口をふさげ。」
張遼がその意味に気づくまで、郭嘉は重なった右手から心地よい熱を感じていた。
了