なんだか騒がしい。
調練の見分から戻ったばかりのところを曹操に呼ばれ、回廊を歩いていた郭嘉は一瞬足を止めた。中庭に面した見晴らしのいい部屋に近づくにつれ、烏丸の兵たちの喚声が聞こえてくる。様子を見にいったほうがいいのかと考えながら扉を開けた。
騒ぎ声が一段と近くなって耳に刺さりそうだ。

「来たか!見てみろ郭嘉!」
「何事ですか。」
曹操は南面の大きな窓から身を乗り出すようにして中庭を見下ろしていた。郭嘉が入っていくと、振り返ってはしゃいだ声音で呼んでいる。とりあえず烏丸族の反乱などではなさそうだと安堵したものの、この主君の日ごろの言動からすれば反乱ですら面白がる可能性がなくもない。何が起こっているのか実際に自分の目で見るまで落ち着かず、郭嘉は窓際に曹操と並んで立った。


 広い中庭の真ん中あたりに烏丸と漢の兵の人垣が出来ている。そのさらに中央で、許瀦と張遼が一間ほどの距離をあけ、真剣な面持ちで向かい合っていた。武人として申し分のない体格の張遼だが、相手が許瀦となるとやはり一回り小さく見える。
 言語も入り混じった喚声に応えたのか、許瀦が丸太のような右腕を高々と挙げて短く吼え、許瀦の後ろをぐるりと囲んだ兵たちから、一際大きな声が上がった。
 その場に烏丸の兵たちが樽を転がしてきて立てると、二人は互いに不敵な笑みを浮かべて両肘をそれに乗せ、がっちり掌を組み合わせた。
 人並みをかきわけて出てきた徐晃が、二つの拳の上に手を置き、高らかに宣言する。
「Ready-----GO!」
最後の響きが消えるか消えないかのうちに対戦者二人の肩に力が入った。緊迫した空気にのまれたか、烏丸族も一瞬静まり返ったが、すぐに口々に叫び始めた。聞き取りにくいが、将軍、将軍と連呼しているらしい。
「うおおおおおお!!!」
「ぬううううううッ!!!」
顔面を紅潮させ一息にねじ伏せようとする許瀦に対して、張遼はよく持ちこたえている。肘と樽の表面がこすれてぷすぷすと煙が上がり始めた。
「おおおおおおお!!!」
「ぐううううううッ!!!」


 昼日中から何をしているのかと言う気も失せる。郭嘉はげんなりしてつぶやいた。
「非常に暑苦しい光景ですな。」
「何であいつらは俺を仲間に入れんのだ!」
窓枠をつかみ、二階の窓から文字通り飛び入りしそうな状態になっている曹操は、声すらかけられなかったことに憤っているらしい。荀ケがいればあわてて裾をつかんでおくだろう。
「……どちらが勝っても負けても色々と困ります。」
「許瀦は俺が知る限り負けたことがないぞ。どっちが勝つと思う。」
「許瀦殿でしょう。」
さらりと答えたものの、曹操はそんな郭嘉を見てにやりと笑った。
「賭けるか?」
ぴく、と郭嘉の肩が動いた。
「しかし、賭けるようなものを私は持っておりませんが。」
曹操の指先がすうっと郭嘉の目元を指す。薄い皮膚には色濃く隈が浮いている。
「軍師の寝不足の理由……と言いたいところだが、仕事と言われてもつまらん。今夜の晩飯の酒にしておこうか。お前は許瀦に賭けるんだな?」
郭嘉が言葉に詰まっている間に、じゃあ俺は張遼に賭けようと嬉々としてのたまった主君は、さらなる追い討ちに出た。
「よし、ハンデをもらうぞ。」
そう言うやいなや窓からさらに身を乗り出し、大きく手を振った。荀ケがいれば腰に紐をつけて柱にくくりつけておくこと間違いなしの乗り出しぶりである。


 張遼はよくがんばった。眼前で繰り広げられる熱(苦し)い攻防を見守りながら、徐晃はうんうんとうなづいた。
その騎馬術、指揮能力、個人の武、どれをとってもすでに一流の武人といえる張遼だが、腕相撲にそういうことはあんまり関係ないのだ。しかも相手が夏侯惇や徐晃ならばまだしも、許瀦である。曹操軍においての怪力・強力の代名詞、許瀦の本気モードにここまで耐えただけでも相当なもんだと徐晃は心から思った。
 限界を迎えつつあるのか、張遼の体勢が手首を中心にじりじりと崩れはじめた。かろうじて踏みとどまってはいるものの右足は地面にめりこみ、顔には汗が玉となって浮かんでいる。声援も圧倒的に許瀦優勢で張遼陣営には勢いがない。許瀦は容赦なく追撃し、張遼の肩や手首がきしむ。やはり人類に許瀦を倒すことは不可能なのか。奴はラオウか。
しかしその時、天の声が響いた。

「おーーーい!ここで曹操と郭嘉が見ているぞーーー!!!」

熱戦に背を向けて徐晃が振り仰げば、今にも落ちそうな姿勢で二階の窓からぶんぶん手を振っている主君と、そのまま落ちるもやむなしと顔に書いてある軍師がいる。
俺も混ぜろと言われなかったことに徐晃はほっとしたが、次の瞬間彼の背後から異様なオーラが湧き上がった。

 なんとなく予想しつつ振り向くと、案の定、撃沈間近だった張遼が見事に復活している。

「わかりやすっ!」
たとえ真剣勝負の最中といえども、徐晃は突っ込まずにはいられなかった。
張遼のいきなりの復活ぶりとうっすらピンク色に立ち昇るオーラに押されたか、ドン引きしたのか、さしもの許瀦の右腕もわずかに傾いた。
すかさず畳み掛ける勢いの張遼。
「うぉっ?!」
「ぬあああっ!!」
これは逆転か?奇跡の逆転劇か!?
ギャラリーも否応なく盛り上がる。だがそれが頂点に達した瞬間、負荷に耐えきれなくなった樽の蓋が音を立てて弾け飛んだ。
「あー!」
徐晃の猫ひげをかすめて破片が飛んでいく。
腕相撲からそのまま熱い握手に移行した将軍二人はうっちゃって、何はともあれ主君の無事を確かめるべく二階に目をやると、もちろんただの木っ端がそこまで飛ぶわけもなく曹操も郭嘉も無事に立っている。
だが、その表情は。
ありありと「不満」を浮かべた表情までは見えなかったことにして、徐晃はさりげなく後始末を始めた。




「引き分けでございましょう。」
「急に取り澄ました物言いをするな。あれのどこが引き分けだ、どう見ても張遼の勝ちだったぞ。」
「審判は徐晃将軍ですから、彼の判断に任せるべきかと存じますが。では呼んでまいります。」
郭嘉はそそくさと一礼すると、曹操に何も言う隙を与えずに退出した。
急ぎ足で中庭に向かいながら、そっと胸をなでおろす。どんなにアホな勝負だろうと、目の前で張遼が負けるところは見たくないもので、決着がうやむやになったのは幸いだった。あのまま続いていたら、張遼の右腕はどうなっていたかわからない。郭嘉が見ている以上、絶対に張遼は自分から勝負を降りたりしないからだ。あんなアホな勝負で万一のことがあったらどうする、というわけで実は郭嘉はかなり腹を立てていたのだった。

「徐晃将軍!」
「へ?うわ、軍師殿……!」
三々五々に散ってゆく兵たちをかきわけ、眉間にぎりぎりとシワを寄せた郭嘉が一直線に近づいてくる。徐晃はあからさまに逃げ腰になった。勝てない相手とは戦わないのが彼のポリシーであり、不敗の秘訣だ。ところが逃げ道を探して逡巡したわずかな間に、超低気圧の軍師は徐晃のすぐ前まできてしまっている。辺りを見回してもなぜか張遼も許瀦もいない。どうやらこの軍師の怒りの矛先は、徐晃一人で受け止めねばならないらしい。それだけはイヤだ!と半分パニックに陥りかけた徐晃の予想とは裏腹に、郭嘉は静かな口調で言った。
「さきほどの勝負について、殿が判定結果をお望みですが。」
「じゃじゃじゃあすぐ行ってきますわ!」
まさか賭けが行われていたとは知らない徐晃が、曹操にさらっと報告すればすむと九死に一生を得た思いで駆け出すと、
「その前に!」
声とともに背後でマントを引っ張られた。思いっきり絞まった徐晃の喉からグギェッと変な音が出て、同時に魂も出て行きかかったが危うく押しとどめ、花畑が見えなくてよかったと心から安堵したところへ最も恐れていた質問が。
「誰の企画か教えていただこうか。」
「いやっそのっ誰がといいますか……」
郭嘉の目が光っている。超低気圧は着実に発達しつつある。ゴロゴロと雷の音さえ聞こえてきそうで徐晃は耳をふさぎたくなった。自分がお膳立てしたことがばれたら、と思っただけで猫ひげがぷるぷると震える。こうなってしまったら勢いでごまかすしかない。
「まあそのー、その場のノリですわノリ!怪我もなくてよかったよかった!」
「それは結果論。」
「あー……」
言葉で一刀両断されて虚空をさまよった徐晃の目がカッと生気を取り戻した。
「張遼ー!!ここ、ここ!!助けてくれっ!!」
どこへ行っていたのか、のん気に許瀦と戻ってきた張遼に徐晃は必死で手を振る。すぐに気づいた張遼が、嬉しそうに駆け寄ってきた。
「郭嘉!」
呼んだの俺だから!と突っ込みたいのは我慢だ。徐晃には、この場を何とかしてくれるならそれくらいのことに目をつぶる器量はある。凶悪な顔で舌打ちする軍師から逃れられるなら。
郭嘉が張遼へ振り向くと同時に、ずっと締め上げられっぱなしだった喉が開放され、徐晃は大きく息を吸い込んだ。

「今、徐晃将軍に事情を聞いていたところだが。」
「事情?」
「さっきまでここでやってた馬鹿騒ぎだ!」
ようやく張遼は、郭嘉が不機嫌なことに気がついた。
「なんでそんなに怒ってるんだ、あんたは。」
素直に聞いてみれば、目から火でも吹きそうな視線を向けられた。
だがその直球をくらって郭嘉は少し落ち着いたらしく、声のトーンを落として言った。
「かるはずみな真似をして、筋や腱を傷めたらどうするつもりだ。自重してくれ。」
ああなるほど、主戦力としての自覚を持って慎重に行動しろということだな、と聞いた者は皆思った。
張遼以外は。
「郭嘉……!大丈夫だ、腕にはこのとおり何の異状もない!」
自分を案じてわざわざ中庭まできた郭嘉に無事を示さねば!という熱意をもって、張遼は郭嘉の両脇に手を差し入れて軽々と目の高さまで抱き上げた。
「……っ!」
郭嘉がぶわっと音がしそうな勢いで赤くなる。地面から離れた絹のつま先が揺れているのを徐晃は絶望的な気持ちで眺めた。
ほどなく堤防は決壊するだろう。
「……い……っ」
「うん?」
「今、自重しろと言ったばかりだろうがーーー!!」


もし郭嘉の手が届いていたら、おそらく張遼の頬にはグーパンチの跡が残ったに違いないが、リーチの違いでそれは免れた。
だがこの三日後に郭嘉に口を聞いてもらえるようになるまで、虚ろな目つきで調練をこなす張遼を、兵たちはキョンシーと呼んで恐れたりいやがったりしたという。




終劇





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