モップで道場の床を拭く手を休め、雅孝は腰を伸ばした。
二年の部長と一年生の彼の二人だけの柔剣部にはこの道場は広すぎる。鍛錬後の疲れた身体にムチうってモップがけをしても、まだ半分以上の面積が残っている。
額を伝う汗が顎まできて、せっかく拭いた床に落ちそうになり、あわててTシャツのすそでぬぐった。まだ5月だというのに、今日は蒸し暑い。
(早く終わらせてシャワー浴びよう)
モップを持ち直したとき、誰かが道場に入ってきた。


「部長……?」
先に帰ったはずの真夜が忘れ物でもしたのかと思ったが、土足で入ってきたのは知らない男子生徒だった。
黒髪を、制服とは違う白い細身の半袖シャツの肩まで垂らし、頭にバンダナを巻いた長身の生徒は雅孝以外誰もいない道場を見回して言った。
「棗真夜は?」
「もう帰りました……けど、靴、脱いでください。」
不快な思いを隠さずに答えると、相手はわざとのように靴音をたてて近づいてきた。
雅孝の手前2メートルで止まり、値踏みするように上から下まで眺めたあと、
「あんた誰?」
「柔剣部一年、高柳です。靴、脱いでください。」

「へぇ……」

ほくろのある目元をほころばせて微笑を浮かべた直後に、鋭い中段蹴りが雅孝を襲った。
踏み込みと蹴りがほぼ同時のスピードで、とっさにガードしたものの、右の上腕に靴のつま先が食い込み肩まで電流のような痛みが走る。
「いっ……いきなり何するんですか?!」

「あら。ほんとに光臣の弟なんだ。少しは楽しめそうじゃない?弱いものいじめってイヤなのよね。」

雅孝は踏み込んできた相手がまた距離をとっていることに気づいた。雅孝の間合いを避けている。

「執行部……?」

「正解。執行部二年、神楽坂。よろしくね、ジュニア君。ここでサヨナラかもしれないけど!」

 言い終わらないうちに襲ってきた右回し蹴りを雅孝が身を沈めてかわし、攻撃のための拳を出しかけたところに左の膝が打ち込まれた。
軸脚が瞬時に入れ替わり、その回転のエネルギーも攻撃に上乗せされている。
細い身体から繰り出されているとは思えないほどに、一撃が重い。

ガードしているつもりでも、雅孝は脇腹や肩に何発か食らっていた。真夜にしごかれて体力を絞りつくしたあとの不意打ちは、精神的にも肉体的にもきつい。普段の力の半分も出せないまま、防戦一方になっている。

「ちょっとォ、何よもう倒れそうじゃないの。」

わずかに攻勢が緩んだ隙を突き、蹴りにきた脚をつかんだ。神楽坂がバランスを崩したところを一気にたたみかけようとした雅孝だったが、肝心の、つかんだ腕に力が入らない。最初の右肩への蹴りが思った以上に効いていたのだと気づいたときは、もう機を逸していた。かえって懐に凶器を抱え込む結果になり、防御体勢をとる前に胸に一発食らって後ろに吹き飛び、道場の壁にしたたかに背をぶつけた。


「……っ、は……っ」
胸と背を強打したせいで呼吸ができない。床に丸くなった雅孝の目に、近づいてくる神楽坂の靴が映るが、身体は重くしびれている。
「あっけなかったわね。さっきガードされたときは少しはやるのかと思ったけど、買いかぶりだったみたい。光臣が好きにさせとくわけだ。」

どんな攻撃よりも痛い部分をつかれ、雅孝は唇をかんだ。執行部の中に自分の顔を知らない者がいるということが、相手にされていない何よりの証拠だ。柔剣部に入ろうがどうしようがお前にはなにもできない、という兄の声が聞こえるようで、悔しさがこみあげる。

神楽坂は雅孝の目の前まで来ると、身をかがめ、伏せていた雅孝の顔を前髪をつかんで持ち上げた。痛みで声が出そうになり、歯を食いしばってこらえつつ、胸に当てていた手を離して神楽坂の手を抑えようとした。
「かわいい顔してるじゃない。ちっとも光臣に似てないけど、ほんとに兄弟なの?アンタたち。」
「は、離してくださいっ、好きで兄弟なわけじゃ……」
「甘ったれたこと言ってると、骨ごと顔潰すわよ?」
寒気を感じて雅孝は黙った。自分で弱いものいじめはイヤだと言っていたとおり、弱者を延々といたぶるタイプではなさそうだが、そのかわり自分の癇に障ったものは徹底的に破壊しそうな暴力性がちらちらと透けて見える。

「なんで自分がこんな目に遭うのか知りたい?言っとくけど、柔剣部潰しとかじゃないわよ、だったらアタシ一人じゃ来ないし。アンタに関して、光臣からは何の通達もないし。」


 そんなことはわかっている。兄が自分を気にもとめていないことくらい、統道に入った時からわかっていた。
だから意識せざるを得ないほどに強くなろうと、わざわざ柔剣部に入部した。
それからまだ一月も経っていないとはいえ、光臣どころか何人もいる執行部員の一人に動けなくなるほどのダメージを負わされ、反撃も出来なかったことは、雅孝にとって深い傷になりそうだった。



「ふふ、すっごい悔しそうな顔しちゃって。なんか興奮してきちゃった。」

舌で唇を舐めた神楽坂は、ようやく半身を起こした雅孝に言った。
「ちょっとしゃぶってよ。」
「え……?」
「ここにはもう誰も来ないんでショ?光臣には黙っててあげるからさぁ、ほら、口開けて。」
ようやく言われていることの意味がわかり、逃げようとした雅孝の腕を素早く神楽坂がつかんだ。
そのまま仰向けに倒され、胸の上をまたいだ神楽坂の膝に腕を押さえられた。床に押し付けられた腕がきしむ。

痛みと、これから何をされるのか予想がつかない恐怖で雅孝は軽くパニックを起こしていた。
「ど、どいてくださいっ!離し……っんぅッ」
神楽坂の指が、強引に口内に侵入してくる。

「……っふ……んんっ……」
雅孝は、口の中をかき回す指から何とか逃れようと首を振った。
「躾の悪い部下が棗真夜に半殺しにされてね、お礼に来たんだけど。かえってラッキーだったかも。」
唾液にまみれた指を雅孝の口から抜き、自分の半勃ちになった性器にぬりつけると、神楽坂はもう片方の手で雅孝の顎を押さえた。

「噛まないでね。上手くできたらホメてあげる。」




「んぐっ……えぅっ、う……っ」
指とは比べ物にならない質量の異物に口腔内を蹂躙されて、息苦しさに涙がにじむ。
「ちゃんと舌使わないと、終わんないわよ。」
上から降ってくる神楽坂の声も、耳鳴りにのまれてよくは聞こえない。聞きたくないのかもしれない。

 始めはただ咥えているだけだったが、それでは異物に反応して分泌される唾液でむせかえりそうになる。
いつの間にか、舌は無意識に押し返すような動きをしていた。先端を、茎の部分を、舐めるほどの余裕はなく舌全体で形を探って押し出そうとする。もう何分その動きを繰り返しているのかわからず、顎がだるかった。

「できるじゃない……」

男にしては滑らかな指先が、雅孝の唇をなぞる。

「ふ……ぅッ!んむうっ……!」
喉の奥深くまで突き入れられた雅孝がくぐもったうめき声を上げたが、神楽坂はまるで気に留めた様子もなく唾液にまみれたそれを抜き差しし始めた。
「光臣が見たら……あ、ぁんッ……んふッ、な、何て言うかしら……?」
びくっと身を震わせて動きを止めた雅孝を見下ろす顔は、満足げに笑っている。
「そんなこと、思っただけで……イキそ……っ」
「……ッ!」
含まされたものがさらに膨らむのを感じ、雅孝は渾身の力で逃げようとしたがもう遅かった。
「んッや、やッ、うぁ……っ」
口から外れたそれを、神楽坂が自分でしごきながら雅孝に向ける。
「あ、あ……ッで、る……ッ光臣……っ」


 雅孝のきつく閉じた瞼に、頬や鼻筋に独特の匂いを放ちながら勢いよく浴びせかけられたのは、紛れもなく精液だった。
生暖かい他人の体液は、不快な粘性で端正な顔を覆う。神楽坂は体の上からおりたが、雅孝はあまりの非現実性に虚脱しかけていた。

 しかもこれほど屈辱的な目に遭わされながら、最初から最後まで兄の身代わりでしかなかったことは、相手が絶頂とともに呼んだ名でわかりすぎるほどによくわかっている。

 悔しさと怒りがないまぜになってにじんできた涙を、必死でこらえた。絶対に泣くまいと唇をかんだ拍子に、一緒に口に入ってしまった精液は苦く、吐き気がこみあげる。
 そうだ、シャワーを浴びるんだったとぼんやりした頭で考えた。この数十分の出来事も洗い流してしまえたらどんなにいいだろうか。

「あーあ、スゴイことになっちゃって。写真、撮っちゃおっかな。」
ぱちん、と携帯電話を開く音に自分でも驚くほど素早く反応し、雅孝は跳ね起きた。動揺のあまり言葉が出てこない。ただ、相手の手の中のそれを奪おうと身構えた時。


ふっとタバコの匂いがした。


「そのくらいにしとけ。」


 低い声。長身の神楽坂よりさらに大柄な男。
外に立っているため逆光で顔は見えなくても、雅孝は誰だかすぐに気づいて顔を伏せた。

こんな情けない姿を、兄の次に見られたくない人物だった。

「……なによ。邪魔する気?」
苛立った声音が答える。

「邪魔も何も、もう終わったろうが。それ以上はやめろって言ってんだよ、俺ァ。」

逆らいがたい圧力がその場に満ち、神楽坂が舌打ちをしてシルバーの携帯をポケットに戻した。

「もう行け、高柳。」

いっそここに自分がいることなど忘れて立ち去ってくれればいいと思うほどに、羞恥で身の置き所もなかった雅孝は、いきなり声をかけられて硬直した。
外に背を向けたまま、もつれそうになる脚でなんとかシャワールームへ一歩踏み出す。

なぜここに。
いつから見ていたのか。

どうして、

どうして助けてくれなかったのか、

そう思ってしまう自分の卑しさが悲しい。




 気温のせいで少しぬるくなった水がほとばしり、雅孝は着衣のまま頭から浴びた。妙に肌になじむ水温は、体液を思わせてどれだけ浴びても清浄感が得られない。
口をゆすぎ、顔をひりひりするまで手でこすった。
 
 

 こんなのは強さじゃない、絶対に正しくなんかないと否定すればするほど、負けた事実がのしかかる。

正邪の判定をくだらないと一笑に伏せるほど強くなりたい。

雅孝を取り巻く現実は、そう口に出して願うことすら許してくれそうにはないが。

少なくとも今は、まだ。






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