「殿の鍼が、また増えた。」

荀�ｹと荀攸は座り込んで下界を見下ろしていた。

「やはり関羽の樊城攻めか。」

「殿ォ……」

包囲されている樊城駐屯軍の心配よりも、漢中戦が甚だ消化不良であったことに要因があるのかとも思い、荀攸は意見を聞こうと朋輩の姿を探した。

「郭嘉？また合肥を見ておるのか。」

少し離れたところで同じように下界を見ていた郭嘉は、そそくさと立ち上がった。

「孫呉の動きが気になっただけだ。」
「素直に張遼将軍を見ていたと言えばいいだろうが。合肥は今放っておいても平気なところナンバーワンだ。」
「なっ……！」

李のように赤くなった郭嘉と、迎え撃つ気満々の荀攸の間に勃発しかけた口げんかは、荀�ｹの絶叫で中断された。

「と、殿が樊城へ向かわれる！あぁ――ッ絶対にそうだ！殿ォ―！お体をおいといくださいーッ」


「……止める立場の自分がさっさとこっちに来ておいて何を言うやら。」
えぐるような郭嘉の言葉に、今度こそ荀�ｹが泣き出した。







「ん？」

今まさに馬を引かせようとしていた曹操は天を見上げた。

「ど……どうなさいました……？」

後から司馬懿が恐る恐る問うと、そのままの姿勢で答えが返ってきた。

「……泣いているのか？」

「は？」

「変わらんな。まるで俺が進歩のない童のようだ。」

ふん、と息をつくと曹操は踵を返した。歩き出したときと同じ速度で司馬懿の横を通り過ぎていく。

「殿！」

見送る司馬懿の首が180度回った。






「言っていいこととそうでないことの区別もつかんのか！」

「軍師にそんな区別があるか！」

ぎゃあぎゃあ言い合う声を頭上に流しながら、荀�ｹは安堵のため息をついていた。
ひとまず曹操は軍議の間へ戻るらしい。

下界の声は天へは届かず、曹操の言葉は荀�ｹには聞こえない。

だが曹操が天を見たあの一瞬、自分の姿をみとめてくれたような気がして、それだけで荀�ｹはふわふわと幸せな気分になっている。


「叔父上！気になさることはありませんぞ、郭嘉の言うことなど！」

「ん？何が？」

「叔父上……」

膝を抱え、満面の笑みを浮かべる荀�ｹに、年長の甥はへたへたと腰を落とした。




やっておれんと寝転んだ郭嘉は、結局うつぶせになってまた合肥に目を戻した。

北の果てで情を交わした男は、この数年間魏国の南端を守護している。

昔から色が薄かった髪は美しい白髪になった。

触れてみたい、と寝転んだままそっと手を伸ばす。

届くわけもないはるかな世界に、自分が置いてきた世界に。








河に沈む陽がすべてを赤く染めていくのを、張遼は馬上で見ていた。

詩に縁はないがそういう眺めを美しいと思うこともある。


名を呼ばれ振り向くと、同じく馬上の夏候惇が文を手に近づいてきた。

「都から手は足りとるかと言ってきとるぞ。必要な人材があれば送ると。」

「人材、ですか。」

言葉に窮した様子の彼を見て、夏候惇が笑う。

「都で面白い歌を聴いてきた。」

「は？」

いきなり飛躍した話に、張遼が発した言葉は幾分間が抜けていたが、夏候惇がニヤニヤしているのはそのせいではない。

「魏の南の守護神、孫呉にあっては合肥の鬼と恐れられる張遼将軍には、十年以上前に死んだ想い人がいて、今も墓参を欠かさんそうだ。」

何のことだかさっぱり飲み込めず、講釈師の勝手なでっち上げかとわずかに気分を害しかけすらした。

夏候惇が、目尻を指で吊り上げてこう言うまでは。



「張遼、その想い人はこんな目をした居丈高にしゃべるやつか。」


「……！」

誰のことを指しているのかやっとのことで気がついた張遼は、彼にしては誠に珍しく、赤面した。

どんな不意打ちをうけても戦場でこれほど動揺したことはない。

夕日のおかげでその顔色が大して目立たずにすんだのが、不幸中の幸いだった。

「墓参なんぞいつしとったんだ。」

真顔で尋ねられ、張遼はかろうじて言い返した。

「その歌とやらを将軍が歌ってくだされば、教えてさしあげる。」

夏候惇の声は、長い年月を戦場で過ごしてきた武人特有の、枯れたような擦れたような風合いを帯びている。

千の兵や万の軍を指揮していれば、嫌でもそうなる。

およそ歌にはむいていない。


だが、夏候惇は文で首筋をぱしぱし叩きながら言った。

「否定せんところが実にお前らしいな！張遼とはそういうところがたまらん漢だ。」


罠はもう一段仕掛けられていたのだった。


「……敵いませんな。」


厳しい目元をほんの一瞬ほころばせ、張遼は馬首をめぐらせた。

「人材は温恢殿に一任いたしましょう。それでよろしいか。」

「ああ構わん。」

魏王からの書を、夏候惇は片手でぽいと投げてよこした。

「腹が減った。飯を食いに戻ろう、張遼。追憶に浸るのはそれからにしてくれ。」

最後までからかいながら、彼は馬を早めて行った。




城壁の内側から、炊ぎの煙が幾筋も立ち昇っているのが見える。
空ははや群青に染め変わらんとし、星が姿を現し始めた。

長江の幅広い平坦な川面は、あの北の大地を想起させる。

追憶などまるで柄ではなく、夏候惇もそれを承知でからかっていたのだろうが、夕景をみるたびに柳城を思い出すのは確かだ。


「郭嘉。」


無心に呼んでみた。泉下で会えたなら、講釈師の言うこともまんざら嘘ばかりではないらしいと教えてやろう。

門の前で彼を待つ夏候惇の姿が見え、張遼は愛馬を駆った。








声が聞こえずとも、その唇の動きで呼ばれたことはわかる。
もはや痛みを感じない身であるはずが、キリキリと胸を締め付けられ、郭嘉は思わずそこに手を当てた。

「アイヤー」

いきなり正面からそう言われてうつぶせのまま飛び上がりそうになり、締め付けられる痛みも一瞬で吹き飛ぶ。
長安の魏王を見ていたはずの荀�ｹが、邪気のない笑顔で郭嘉の前にいた。

「魂とは厄介だな、郭嘉。」

「あんたが厄介だ！放っといてくれ！」

「お互い、会いたい人に早く会いたいと望むことすらできんのはつらいな。」

「望もうが願おうが天命は変わらん。」

会いたいと思うことくらいは自由だ。言外にこめた意を汲み取ったらしく、荀�ｹは大きな目を細めた。

「あんたくらい図々しかったら、私もまだ殿のおそばにいられたんだがなー。」

「……。」

起き直った郭嘉は、無言で荀�ｹの顎ヒゲを引っ張った。

「いだだだだッ！」

高い悲鳴に荀攸がすっ飛んでくる。
「郭嘉！乱暴なのは口か手かどっちかにせんか！」
「保護者かあんたは。先に無礼なことを言ったのはそっちだ。」

荀攸の後から涙目の荀�ｹが叫んだ。

「張遼将軍に言うぞ！」

「なっ……こっ……くっ……」
何を言ってるんだ子供じゃあるまいしくだらん、と言ったつもりだったが、わなわな震えすぎていて伝わらない。

一本とったと言わんばかりにハイタッチをしている二人組が、腹立たしいことこの上なかった。






そして郭嘉はまた合肥を見ている。
荀�ｹにはああいったものの、やはり会いたいと強く望むことは何かを変えそうで怖かった。

「文遠。ここは平穏すぎて気が狂いそうだ。」

だんだん瞼が重くなってくる。

「文遠……。」





石ころだらけの荒野でも、血まみれの大地でも、ここよりはずっといい。


だからお前はまだ来るな。

繰り返し繰り返し、ぼやける意識の中でそれだけを思い、



風になびく銀髪へ、




手を。







終り