侠の約束だけで仮眠する間も惜しんで馬を駆るわけではなかった。
会わなければ会わずともすむ、同じ天の下のどこかで劉備が生きているというただそれだけでいい。
人影の絶えた荒野を何日も疾駆し、許昌から、劉備軍が曹操軍に追い落とされたという汝南をかすめて関羽は荊州襄陽にたどり着いた。衣がほつれ、薄汚れた風体になってはいても特徴のありすぎる髯や体躯で、門番は誰何する前から誰であるかおおよそわかっていたらしく、最初から礼をとって関羽に接した。門の手前で馬を降りた関羽は、劉備の元まで自分を運んできてくれた馬の、荒く上下している背を撫でた。強靭な馬だったが、もう走れなくなっていることに気づく。がふっ、と大量の泡を噴き、脚から崩折れた馬体はそのままに、関羽は門に寄って朗々と響く声を上げた。
「わが義兄、劉玄徳にお伝えあれ。」
関羽が戻ったと。
それだけですべて通じる。
白馬津の邂逅、公徳ら人質が解放されてもなお許都に、曹操のもとにとどまったことに劉備がどれほどの悲憤を抱いていようとも、そんなことは問題ではなかった。
関羽は戻ってきたのだ。
豪勢な宴は今夜で三日目になる。どこか崩れた印象の劉備は、浮ついた席にしっくりとなじんでいた。劉備にしても張飛にしても、久しく戦らしい戦をしていないことが一目で分かる。特に劉備の目元には青黒い隈がうっすらと浮かび、義弟の帰還を祝う人々に笑顔で応えてはいるものの、それは気を抜けば鬱々とした気が漏れてしまう証明でもあった。絶やさない笑顔の向こうにあるものに気づいているのは、この中でも自分と、張飛、趙雲くらいなものかと関羽は宴に連なる人の波を見渡した。
左の端のほうで誰かがその視線に気づいたらしく、ひらひらと手を振っている。簡擁だ。酒を手に立ち上がった小柄な体は、すでに席も乱れた場のなかをすいすいと近づき、関羽を取り巻く荊州の重臣の人垣の、一番前に入り込んだ。
「はい、ごめんなさいよっと。」
あたりをまるめこむ独特の飄逸さで関羽の杯に酒を注ぎ、自分の杯にも注いで目の高さにかかげた。
「お疲れさん。」
関羽は無言で杯の中身を一気に干した。
「おおー、すげえね、やっぱり雲長がいると酒の席がビシッと締まるわ。」
「……簡擁。お前はずっと長兄の傍にいたのか。」
「そりゃあそうだ。他に行くとこねえもんよ。俺ぁ大将好きだしね、益徳と二人じゃあ危なっかしくて見てられねえし。ま、あれだ。お前さんが帰ってきてくれたから、ちったぁマシになると思うがね。」
言外にここでの劉備の暮らしぶりが見え隠れする。もっと深く聞きたいと思ったところで、荊州の重臣たちが取り囲むこの場では黙っているにこしたことはない。
だが簡擁は、愛嬌のある丸い目をすっと細めると、
「あとは雲長が自分で聞くがいいや。まだろくに話してもいねえんだろ?」
首を振りながらダメダメそんなんじゃ、という呟きを最後に人垣の向こうへ抜け出て行ってしまった。
何故だか、置いていかれたような気になった。
宴席でもみな節度を心得ていて、巳の刻にはお開きになる。先に退席した劉表に続いて数人が丁寧な挨拶をしたうえで部屋を出、やっと見通しが利くようになった関羽が目をやると、室内に劉備の姿はもうなかった。
館の準備が調うまでの間と言われて、荊州に入ってから三日間、劉表の居城の一角にある豪奢な客間で寝泊りし、昼は劉表から名も知らぬ学士まで会いたがる者が多く、劉備の顔すら見ていないほどだ。
だが劉備が関羽とゆっくり話したいと望めば、叶わないわけがなかった。生き別れた義兄弟が艱難辛苦のうえで再会、という筋立てはこの土地の知識階級には感動の涙とともに受け入れられているらしいのだから。
そういう機会が訪れないのは、つまり劉備が避けているのだろうと容易に想像がつく。
なにか恥ずべき状況にあるとき、劉備は必ず関羽を避ける。しかも疎んじるのではなく、自分から目を合わさぬようにやり過ごす割りに関羽の挙動をうかがっている節がある。
このときもそうだった。
寝所に入った関羽は、着替えもせずに暫し寝台の前にたたずんだ。やがて燭台の灯りを消すと手燭を持って先ほど閉めた扉の横に立った。手燭は吹き消して床に置く。
闇の中でどれくらいそうしていただろうか。
わずかな軋み音も立てず、じわりと扉が開いた。暗闇の室内に月光が白い直線を描く。扉がゆっくりと開くにつれ、太くなっていく白い線が人影の形にくりぬかれた。
扉は外開きなので、侵入者を捕獲するのはたやすい。素早く腕を伸ばし、劉備の首あたりをつかんで室内に引きずり込みつつ扉を閉め、何がなんだかわからずに暴れる体を持ち上げて運び、寝台に投げ出すと派手な悲鳴があがった。
「あ痛ぇっ!何すんだよ!」
もう一つの手燭を灯して寝台の隅に置いた。投げ出されたはずみにぶつけたらしく、劉備は腰の辺りをさすっている。
逃げられないよう正面に立って見下ろすと、嫌な顔をされた。
「あんたは何をしているんだ。」
「……何だっていいじゃねえか。」
拗ねたような口ぶりで横を向いている。
「よくはあるまい。毎晩人の寝所をうかがうからには、理由があろう。聞こう。」
「毎晩知ってて寝たふりしてたのかよ!理由……理由なんかなあ……」
気づかない振りと寝たふりは厳密に言えば違うのだが、劉備の目に涙が浮かんでいたので、関羽は黙って続きを待った。
「理由なんかねえよ!」
「……」
「ああもううるせえな。理由なんかねえって言ってんだろ。」
「……」
「……なんだよ。なんだよもう。なんで戻ってくるんだよ。おいらのとこなんざ戻ってきたっていいこたぁありゃしねえよ。」
劉備は袖でぐいと目元を拭った。
「戻ってくるぐらいなら、最初から行くなってんだよ!置いてかれたほうの気持ちなんか考えちゃいねえんだろ!」
当時の状況からいって、どう考えても置き去りにされたのは関羽のほうである。
伝令の一つもなく下ヒで孤立し、討ち死にをしてもおかしくはなかった。あの場に公徳がいなければ、十中八、九は死んでいた。
それでも特に悔いることはなかったろうが、この劉備の現状を見る限り、生きながらえたことは正しかったと関羽は思う。
今の劉備にはなにもない。
絹をまとい冠を着け帯に玉を垂らし、毎食豪華な膳に酒がついても、劉備自身に何もないという点では、呂布に下ヒを追われた流浪の頃と変わらない。薄汚れた風体で馬をつぶして貪り喰らっていた劉備も、今と同じ目で関羽を見上げていた。
空虚な目で器を砕いてもいいと言われたあの時、関羽は半ば本気で砕いてやる気になっていたのだ。
「帰る。」
劉備が寝台から降りかけていた。関羽の腿の辺りに腕を当て、押しのけようとしている。その腕をつかんで転がし、寝台に押さえつけると、劉備の顔にわずかな怯えが走った。砕いてやろうか、と猛りそうになるものを抑え、気がついて腕をつかむ力をすこし緩めた。
「帰って、また眠れずに過ごすのか。」
劉備は目をそらす。その目の下にくっきりあらわれた青黒い隈の原因に、関羽は気づいていた。この男は気配を消すような器用なまねはできない。ただ足音を忍ばせて関羽がそこに寝ていることを確め、また部屋を出て行く。三日間毎晩そんなことを繰り返された関羽もたいして眠れずにいたのだ。
「そんな顔でうろつかれてはたまらん。ここで寝ろ。」
「何だとぉ?!」
意表を突かれたらしい劉備の様子には頓着せず、乱暴に布団に押し込むと上掛けをかけた。
「勝手なこと言ってんじゃ……」
「俺はここにいる。あんたはこれ以上何が不安だ。」
掛け布の上から劉備の胸に手を置いて言うと、劉備はにらむように関羽を見上げたが、次の瞬間手を払いのけて頭から掛け布をかぶってしまった。絹地に凝った刺繍を施した布団の内側から、それでもしばらくは何事かつぶやく声が聴こえていたが、やがてやんだ。
規則正しく上下する布団を少し持ち上げてみると、子供のように丸くなった背が現れる。
侠の約束だけで、馬を乗り潰すほどの過酷な帰路をたどってきたわけではなかった。
会わずにいることも苦しくはない。劉備がどこかで生きているのなら、生きていける。
むしろ顔を見てしまうほうが、約束を崇高に思う気持ちとは対極にある情欲をつきつけられて苦しかった。
眠る劉備の隣に横たわると、左側に感じる体温がひどくなつかしく、遠い昔の野営を思い出させる。獣のように身を寄せ合っていたあの頃に、獣のように貪りあってしまうべきだったのだろうか。
純粋に互いに飢えた時は過ぎてしまった。それだけは確かなことだった。喪失感を抱いたまま、関羽は目を閉じた。
了