蜀は雨が多い。
それでもその日は朝から比較的雲が薄く、気持ちの良い一日になりそうだったが、なぜか孔明は空から虫が降ってくるのを見たような顔で漢中王の執務室入り口に立ち尽くしていた。
「……そこで何を?」
「ありゃ。」
本来劉備が座っているべき王の座では、簡擁が頭をかいている。
「すぐばれるって言ったんだけどよ。」
「ご主君!ご主君ー?!」
「書類めくったっていねえっつうの……」
その頃劉備は、成都の郊外を馬で駆けていた。
近衛兵は見当たらないがすぐ後ろには張飛がいる。護衛としてこれ以上心強い存在もない。
張飛は国内ににらみをきかせておくために兵を率いて各地を巡行していたのだが、一月ぶりに成都に戻ってきて自邸で大いびきのところを、劉備にたたき起こされたのだった。
一大事かと思って飛び起きりゃああの野郎、と刺客も泣いて逃げ出す形相で馬上にあるものの、振り向いた劉備に呼ばれて素直に寄っていく。
山のふもとの林に入る手前で速度を緩めた劉備は、隣に並んだ義弟に言った。
「ここらへんで泉とか川とか、水が飲めるとこねえかな。」
「誰が飲むんだ。」
自分の顔を指差す劉備に、張飛は腰にくくりつけた竹筒をほどいて渡した。
「用意いいなあ!」
「おめえが何の支度もしてねえからだろうがよ!」
「抜け出すだけで精一杯だったんだからしょうがねえだろ!護衛ひきつれて遠乗りなんざちっとも気分のいいもんじゃねえ。肩凝るばっかりだ。」
それまでも決して暇ではなかったが、漢中王になってから劉備の日常は多忙を極めた。朝寝も昼寝もできず軍事民事と判子押しに追われまくり、情けない顔で愚痴っている姿には同情をさそうものがある。
「話のわかる軍師は死んじまったしな。」
張飛の言葉で、うっとこみあげてきた涙を劉備は大あくびでごまかし、ことさら陽気に言った。
「お天道様の下にいると、いい考えが浮かんできそうな気がするなあ。」
「あん?まだ考えてんのか?」
三日前の軍議の席で、漢中攻めのための増税の正当性を孔明が滔々と論じ上げている間、劉備は胸元で組んだ腕にあごをうずめるような姿勢でいたので、張飛は密かに寝ているのではないかと疑っていたが、予想される敵将の配置に話が変わるとひょいと顔を上げた。
「魏の五将軍ってのあるだろ。」
夏候淵から連想したのか、劉備は突然そんなことを言い出した。
「権威主義の象徴ですね。数字を冠することで意味ありげに見せているだけの虚仮脅しです。」
魏、というよりも曹操のこととなると孔明に一切の容赦はない。まだなにか言い募ろうとしたところへ、劉備が
「でもちょっとかっこいいよな。」
「……おやりになりたいんですか。」
「おいらのとこには虚仮脅しってのはないからな。そういうの、あってもいいんじゃねえかな。」
「おっしゃるとおりです。国の内外に優れた人材を示すことができますし、配下の兵の士気も上がるでしょう。素晴らしいお考えです。」
なんとなくかっこいいから真似したい、という気持ちを君主の立案として恥ずかしくない体裁に整えることも、軍師の役割なのだろう。単に孔明が劉備至上主義なだけでもあるのだが。ただ一人、空気の読めない馬謖だけが権威主義は?と言いかけて孔明に睨まれていた。
「ではご主君、任命式をしますので五名お選びくださいね。」
「え?」
そして現在に至るまで、劉備は悩み続けている。五人決まらなくはないのだが、本人いわくもっとビシッとした理由がほしいのだそうだ。幸い急かされることもないので、ぐるぐると堂々巡りをしているらしい。
「なんだか関さんと益徳と趙さんの三人で十分な気もしてきたんだけどな、やっぱり五人いねえとかっこつかねえし、かっこつかねえって理由であと二人入れるのも、無礼な話だと思ってよ。どうすっかなあ。」
「無礼もなにも、おめえが君主だろうが。任命して、理由はどうあれこっちはありがたく拝命して、そいうもんじゃねえのか。」
はあああ、と劉備はため息をついた。
「益徳が大人になるたぁ思わなかったよなあ……。」
「置いて帰るぞ。」
「お前ならどうするよ。」
そもそも五人いないとかっこつかないという点は劉備の考えであって、張飛は三人だろうと十人だろうと何も変わらないと思っている。
「そんな時ぁ、一番の年寄りと一番の新参だ。」
この理由でも、劉備が想定している"あと二人"に当てはまるはずだ。
おお!と劉備は叫んだ。
「ほんとにいい弟だな!それだ、そのびしっとはまる理由を探してたんだよぉ!」
馬に乗っていなければ間違いなく飛びついていただろう。霧が晴れたような顔で目をうるうるきらきらさせながら劉備は笑った。
「いやあスッキリした!んじゃさっそく孔明んとこ行ってくるか。関さんに手紙も書いてもらわにゃならねえしな。」
「手紙なんざてめえで書けよ。」
「あ?ああー……そこはほら、正式な文書とかそういうのがいるだろやっぱり……。」
「照れるな気持ち悪ぃ!」
「書けって言うなぁ簡単だけどよ、相手が関さんじゃ緊張するじゃねえか。」
それはわからなくもない、と張飛も思う。また、手紙が劉備からのものであろうと孔明からであろうと、関羽は拝命するだろう。はるか西へ向かって礼をするのだろう。
――――成都まで進撃の指示を受け、自分がそうしたように。
「なあ。」
城への帰途、あらためて張飛は口を開く。
「手紙、書け。そのほうが雲長兄ィは喜ぶ。」
前を行く劉備の頭がこっくりと上下して、関さん、笑わねえかな、と小さな声が聞こえた。
終