秋晴れの空を鳶が舞っている。
深々と息を吸い込めば、透明な空気が肺を満たす。
だが、せっかく体内にとりこんだ澄んだ酸素は、すぐにあくびとなって葉佩から出て行った。
職種柄、数十時間程度なら睡眠をとらなくても平気だが、学生に混じって暮らしていると学生らしいこともしたくなる。
寝不足の朝はあくび。
それだけのことが、自分でも意外なほど心を浮き立たせる。
朝のHR後に屋上に上がってきた葉佩は、目当ての人影を見つけてそちらへ足を向けた。
「風邪ひくぞ、こんなとこで寝てっと。」
もう10月も終わろうというのに、その男はコンクリの壁にもたれてまどろんでいる。
器用にもアロマパイプは口にくわえられたままだ。
葉佩はそっとそれに手を伸ばした。
細い筒に触れるか触れないかのところで、急にその唇が動き出し、あわてて手を引っ込める。
「お前がここにいるってことは、もうHRは終わっちまったのか。」
薄目が開き、太陽を背にした葉佩を見た。
「ふあ――ぁ……寮からまっすぐここに来たのが間違いだったな。」
大儀そうに立ち上がり、のびをしている皆守。
「皆守、教室嫌いなの?」
「少なくとも、こんなに清清しい秋晴れの日に朝からこもりたい場所じゃないな。」
「いられるのは今だけなのに。もったいないなあ。」
ぽろりと口からこぼれた言葉に、皆守は明らかにムッとした顔になった。
「そりゃお前は用が済めばここから出て行くんだろうからな。俺の言うことは気楽な学生の身の程を知らない甘えだろうよ。」
彼には珍しい、ひがむような物言いに驚いて眼を丸くすると、さすがに本人もみっともないと思ったのか背を向けてフェンスの向こう側を見ている。
肩越しに薄く煙が立ち昇り、ゆらめいて消えていく。
猫背気味の背中に葉佩は声をかけた。
「お前さ、いつか、ここから出て気ままに暮らしたいって言ってたよな。」
「……それがどうした。」
「本気なら、俺と一緒に来いよ。」
感情が読み取りにくいいつもの顔で、皆守が振り向く。
少し強めの風が吹き、はるか上空の鳶は一直線に飛び去った。
「でも、逃げ場を探してるんならやめたほうがいい。死ぬから。」
「……ッ!」
皆守を包む気だるいベールが剥がれ落ちた。
激しい怒りとも苛立ちともつかない燃え立つようなこの空気こそ、眉を寄せた険しい表情とともに、本来の彼がまとうべきものなのかもしれない。
だが、露わになったのはほんのわずかな間だけで、それを見せてしまったことを後悔するかのように、皆守は無言のまま足早に葉佩の脇を通り過ぎて階段に続く扉へと消えた。
「……普段からああいう顔してりゃいいのに。」
ぽりぽりと後頭部をかきながらつぶやいている葉佩に、背後から呼びかける声がした。
「よう。朝から仲のいいことだ。」
驚きもせず、葉佩は振り返った。
「おはよ、大和。こんな時間に登校してるなんて珍しいね。」
「たまにはな。」
予鈴が鳴り、逞しい体つきのわりには虚弱体質のクラスメートは、身振りで階段を示した。
廊下は始業前の喧騒で満たされている。肩を並べて歩きながら夕薙が言った。
「ずいぶんスパッと言ったもんだな。」
「さっきの? 嫌われたかなー。」
葉佩はさっきの皆守を真似て顔をしかめてみせた。
「ははっ、盗み聞きだと言われなくてほっとしたよ。」
「聞かれて困る話は屋上なんかじゃしないよ。」
「なるほどな。……俺はずっと、甲太郎がお前に甘いんだと思ってたが。そうじゃないんだな。」
「それって大和が言うとなんか……」
葉佩の視線が夕薙の背後に止まった。
「なんか、なんだ?」
あからさまに不機嫌な表情の皆守が立っている。
「えーっと……なんだっけ?」
「ったく、気持ちの悪い話をしながら入り口をふさぐな。教室に入れないだろうが。」
「甲太郎の口からそんな言葉を聞くとはな。気が変わらないうちにお通りいただこう。」
夕薙は、凄まじい仏頂面で自席に向かう皆守を、嬉しそうに見送って葉佩に言った。
「お前の気持ちがわかったよ。たしかに、あの顔はいい。凶悪だが生気がある。」
「わかっちゃったか。俺だけ知ってればよかったんだけど。」
ほぼ100%本気で答えたのが伝わったのか、夕薙は苦笑した。
その余裕が葉佩には不穏なものに思えてならない。
「まあ、一緒にはいたいが危険には晒したくないと思えば、ああいう言い方しかないさ。甲太郎もそのへんはわかって……なんだか君まで凶悪な顔になってるぞ。俺はまだなにか誤解してるか?」
「べ、別に……」
むしろ理解しすぎだ、と思いつつ葉佩も自分の席についた。
好きな人にわざと意地悪をして、怒らせてしまったかどうか心配でたまらない。
そんな、小学生じゃあるまいし。
自分でつっこみながら冷静なトレジャーハンターに戻ろうにも、窓の外はあまりに文句のない秋晴れ。
皆守のほうを見ると、すでに教科書に突っ伏して寝息すら聞こえてきそうだ。
残念、あれじゃあもう怒ってない。
いやいや、怒らせたいわけじゃない。
葉佩は、これまでに目にした皆守の表情を逐一思い出してこの時間をつぶすことにした。
果たして残り42分30秒、記憶のストックはもってくれるのか甚だ疑問ではあったが。