荊州の春は故郷の春に似ている。
うつろな片袖をぬるい風になぶらせて早足に歩きながら、そんなことが頭をかすめた。
(埒もない)
彼が生れ落ちた襄陽は長江をはさんで北にある。何年も想ったことなどなかった。
成り行き次第では、はるか西へ往くことになるやもしれず、そうなれば帰る途は判然としない乱世である。
高揚か。慄きか。赤壁の大戦の只中ですら感じなかったほどの波が、時折心中に生じる。波頭の影に潜んでいたらしい故郷の記憶に、彼はかすかな嫌悪を感じた。

 
 これから会う相手と首尾よく話がまとまり、その主君を説き伏せることができれば、天下の趨勢は変わる。
戦乱の世でも治世でもなく、変化そのものの過程が彼を惹きつけてやまない。望郷の念などは停滞の象徴にほかならず、忌むべきものであった。




 大声で訪ったわけでもないが、邸はすぐに彼を招じ入れた。


「お待ちしていました。」
室内では羽扇を手にした主が彼を迎えた。
赤壁を境に、以前の妖しさはなりをひそめたように見える。
彼をこの部屋まで案内して茶を運んできた侍女も、引き連れていた遊女とは違うようだった。
よほど人並みになったと言うべきなのかもしれないが、孔明がきちんと着るものをきて冠をつけている姿は慣れぬ、と龐統は思う。

 書き物をしていたらしく、磨きぬかれた黒檀の文机に竹簡が広げられている。
「あなたに見ていただかなくてはならないものです。」
「兵力か。」
竹簡には、将軍の名と兵力、歩兵騎兵の別が大雑把に記されているだけだった。
「配置は」
「あなたがするんでしょう。」
涼しい顔で羽扇をはためかせながら孔明は、文机の前に座り込んだ龐統の背後に立った。
「蜀へは、ご主君はあなたを連れて行かれるはず。あの地で誰を活かすも殺すもあなた次第。」
目は竹簡に落としたまま、龐統が応える。
「あんたにしては気ぜわしいな。まだ荊州を出るかどうかもわからんだろう。」
「すぐに決まります。そのためにあなたをお呼び立てしたんですからね。」

 蜀の臣、張松からの密使が荊州に入ったのはわずか二日前の夕刻。孔明の主君であり荊州の主でもある劉玄徳との正式な会談により、蜀の現君主・劉璋にかわって蜀を治めて欲しいという謀略が明らかになったのは、まだ前日のことである。
同姓を討つという不義に加え、孫呉との同盟も破棄することになり、これまで掲げてきた大徳の一枚看板に取り返しのつかない瑕がつくことすら覚悟せねばならない。一日や二日でできる決断ではなかった。

 ざっと目を通した竹簡を手元に置いて一息つくと、左肩に孔明の手が乗った。
「あなたにしては珍しくやる気に見えますけど。南の熱情の残り香ですか?」
周瑜のことを言っているのだとすぐにわかった。先刻の自分の物言いを真似て、嫌がらせであることを明白にしている。
余人がたじろぐほどに怜悧な目をしながら、子供のように拗ねる、どちらも度を越している点がやりにくい。
肩に置かれていた手は、龐統の髪を指先に絡めてはほどいて玩んでいる。他愛もない仕種だが、漂いはじめる淫靡な気配は奇と正を自在に行き来していた孔明のものにほかならない。
「……ここに来る途中、襄陽を思い出した。あの桃源郷は今どうなっている?」
「あのままです。あなたが訪ねてくれたときのまま。」
以前、たしかに龐統は桃源郷へ足を踏み入れたことがあった。
「よくあそこから出てくる気になったな。劉備殿の器はそれほどか。」
「ご主君は」

鋭い刃のように澄み切った孔明の目に、じわりと愉悦の色が湧く。

「玄徳様は天下人。情に篤く官能の対極にありながら、そのくせ誰よりも苛烈な方。」

龐統の懐に孔明の羽扇が入り込み、左胸の上から脇腹までゆっくりとなぞりはじめる。
「……よせ。」
「どうして。」

「己の主君に欲情しながら、私に触るな。」

孔明が、龐統のあごに手をかけて仰向かせた。
「それが鳳雛の口。」
味わいたい、とつぶやく声音に隠しようもない情欲がにじみだす。赤い舌がひらりと口中に踊った。




 ちりひとつなく掃き清められた床の上に、くせのある髪が広がっている。きちんと結われるでもなく、伸び続けているだけの髪には艶も潤いもない。
「この乾いた感じ、あなたの魂に触れているようです。」
形のよい口唇が、龐統の首筋にからむ髪をくわえてみせる。
帯を解かれ、開かれた龐統の身体の前面を羽扇が這う。羽で圧迫されたところで、伝わってくる刺激は注意深く押されている程度でしかなく、身体はどうしようもなく焦れてくる。
かきたてられた体内の熱を受け流そうと口を開いたが、
「お前が、本当に触れたいのは劉玄徳の……」
最後までは言葉にできなかった。かたく閉じた目裏が灼ける。

遮るように龐統を貫いた理不尽な力は、思考を奪うに足る熱を持っていた。

理性ごと飲み込もうとする途方もない熱から逃れたくても、右腕は孔明がしっかり握っている。
「は……っ」
彼をうがつ熱が深さを増していくごとに、短いうめきともあえぎともつかない声が身体の奥からこぼれて殺しきれない。手首を押さえられていることを幸いだとすら思った。上衣もとらずにいる孔明にすがりつきたくはない。
「目を開けなさい、士元殿。」
かすかに混じる威圧の響きは、以前の孔明にはないものだ。赤壁を境に変わったものの根源を探ろうと、龐統はうっすら目を開けて秀麗な顔を見る。
目が合うと、孔明は満足げに微笑した。

「拒みもせずに受け入れておきながら、目を閉じるのはずるいでしょう?」
屈辱的な言葉にも、鳳雛の口は答えない。何かを言おうとすれば今は言葉よりも先に官能があふれる。孔明はおそらく、それを先刻承知で勝手なことを言っている。
「理知の鏡を情誼で曇らすことを恐れて、主君を持たずにきた雛鳥。」
冷たい声音と指先は、天の高みへのぼりつめる一歩手前で下界に突き落とす残酷な刺激を与え続ける。
龐統の右手が空をつかんだ。


「中郎将様。」
部屋のすぐ外で、孔明に呼びかける女の声がした。近づく気配にまるで気づかずにいた龐統は身をすくませたが、孔明は動きすら止めずに平然と返事をしている。
「お召しでございます。龐統様もご一緒にと。」
「すぐに参りますと伝えてください。」
侍女が去るまでの間、解放された龐統の右手はぎりぎりと孔明の衣を握り締めていた。幾度も声を上げそうになり、懸命にこらえた。肩ではなく衣をつかんだのはせめてもの矜持だった。
「ほら、お呼びがかかりましたよ。立てなくても運んであげますから、平気です。」
「……っ、はっ、う、ぁっあ……ッ!」
腰から下が本当に熔けてしまうような衝撃に、もう何を耐えることもできない。獣のようだと自嘲する余裕も奪われ、意識が白熱の只中にあるのか暗黒に堕ちるのかさえもわからなかった。




 力が入りきらない片腕でなんとか身を起こし、差し出された孔明の手には首を振ってみせる。孔明は細い眉をつりあげて呆れた口調で言った。
「扱いにくい人ですねえ。そこが魅力だとは思いますけど、でも」
早くしないとご主君が待ちくたびれて来ちゃいますよ、と臆面もなくせきたてられ、龐統はだるそうに口を開いた。
「……その厚顔ぶり、ありえん。」
帯を拾い、片端をくわえ器用に巻きつけて立ち上がってみると、下半身はまだ自分のものではないかのように重く痺れている。
「呼ばれることも予想済みか。」
「もっとゆっくりしたかったですか?」
相手にしないことにして、龐統は廊下を歩き出した。後をゆっくりと孔明がついてくる。あくびの音が聞こえた。




 足元に落ちる影が、西へ伸びている。来たときよりも幾分冷えて心地よくなった風が髪をかき乱し、龐統の視界をさえぎった。
「さてどう口説き落とす?不義の戦を。」
足音も立てず、孔明が龐統の隣に並んだ。
「まずは蜀入りしていただくことです。あなたも今すぐ攻め落とそうとは思ってないんでしょ。」
劉備がいずれは腰を上げ、龐統を連れて行くことを予見しながら今蜀攻めの進言はしないという。
「一番骨の折れるところは私の役か。」
「臣下ではないあなただからこそ、です。」
風が吹く。砂が舞う。
孔明が羽扇を顔の前にかざす。
きっちりと編まれた艶やかな黒髪が鬢の辺りにほんの一筋こぼれるのが龐統の目に映った。

「龐統。」

不意に呼ばれたことで、須臾の間自失していたことを知る。

「変わってゆくのは人のみだ。枯れようと朽ちようと竹も池も本質は変わらない。人だけが変わる。君がそれを恐れるなら、あの桃源郷は君を受け入れるだろう。」
ぐんぐんと落ちていく陽を背にして、孔明の目が光っている。
時の流れが止まった場所から変転する外界を覗き見る、それは心を揺さぶられずにはおれない誘惑だ。たとえ戻れぬとしても。
己の身が屋根の下にあれば、嵐は激しいほど胸を躍らせる。

「……私が軍師でなければその誘い、乗ったかもしれんな。」
剣風と矢の雨の只中に身を置き、そこから変化を生み出すことに至上の喜びを得る者でなければ。
龐統は口元だけに笑みを浮かべて孔明の肩を軽く押した。
「行くぞ。」
射るような光が孔明の目から消え、夜の江のような深淵がかわりに現れる。淵に立てば、人の身と智ではもてあますものを見てしまうことは明らかだが、目をそらせば孔明に近づくことはできない。


 龐統がそれを視ることを、もうずっと前から孔明は待っている。初めて地底の桃源郷を訪れたあの時から。
(それは天下人の役目だ)
この孤独な異形の背を撫でる手は天下人以外のものであってはならない。地を這う雛鳥に御しきれるものではない。


外からは見えない懐の中で拳を握り締め、振り向かずに歩き出す彼と動かない孔明の間を強い風が抜けていった。