ふっと夜の匂いをかいだ。
頬に冷たいものを感じて龐統が目を開けると、孔明がのぞきこんでいた。滑らかな冷たい手が頬を撫
でている。
「……おかえり。」
「外より寒いんですけどこの部屋。」
「手のほうが冷たい。」
室内のあかりはダウンライトなので孔明の細かい表情は見えないが、片眉が吊り上ったのが雰囲気で
わかった。こういう時の孔明に何を言っても、完膚なきまでに論破される。もちろん応戦は可能だが
、よほど大切な議論ならともかく、冬に室内が寒いという主題で精魂傾けてディスカッションするの
もどうかと思う。
結論として龐統は毛布と羽根布団を持ち上げ、暖まった空気が逃げる前に孔明をひきずりこんだ。
「ごまかそうとしてる!絶対ごまかそうとしてる!」
「続き」
「え?」
「しないのか。」
頭を撫でてみると、指の間を冷えた髪の毛がすべっていく感覚が心地いい。
「……する。」
大人ってずるーいと言いながら、孔明は脱いだダウンを床に落とした。
龐統はまったく知らなかったが、マンションの裏手にあるコンビニは頼めば灯油を配達してくれる
らしく、孔明はさっさと電話注文を完了した。
感心している龐統に、孔明は何度言い聞かせても迷子になる子供を見るような顔をした。
「それで叱られたのか。」
郭嘉はおかしそうに笑った。店内は非常に騒々しいので、カウンターで隣に座っていても普通の会話
の音量では聞き取れないほどだが、郭嘉の声はよくとおる。
「叱られたというよりも……諭されたというか……」
去年も言ったでしょ、命にかかわるんだから忘れちゃだめでしょ、と切々と言い聞かされた。しかも
正座で。むしろ怒鳴られたほうが精神的には楽だったかもしれない。
「命にかかわるは大げさだろう。」
「本人が寒いのが嫌いなので。」
「なるほど。それにしては二人とも半袖なんだな。」
「……。」
お説教タイムのあと、孔明が取り出した衣装を見て、言うこととやることが違うと一応抗議はしてみ
た。店の中は暑くなるからいいんですーとあっさり却下されたうえ、長袖がいいならサンタ服を着て
くれてもいいんだと脅されてしまったが。
そんなわけで、今、龐統はヨシュアと書かれた白いTシャツを着ている。もちろん頭には茨の冠が載
っていて、小さなバラのつぼみまでついている。孔明が造花とワイヤーで作ったらしい。
クリスマスの仮装としては、ある意味ものすごく不謹慎だといえる。
「彼の稀有な実務能力が君といることで無駄にならないのであれば、それは喜ばしいな。生活スキル
の欠落については私も他人事じゃないが。」
「そんなふうには」
「見えないか?」
それはどうも、と郭嘉は軽く帽子を持ち上げた。黒いシルクハットと黒いフロックコート、真っ白の
シャツに臙脂色のアスコットタイ、足元にステッキを立てかけた英国紳士のいでたちが不思議と違和
感なく似合っていた。
「実は、やかん禁止令が出てる。」
「やかん?」
空焚きしてね……と郭嘉は一瞬視線をさまよわせた。
「幸い、火事には至らなかったが。三度目くらいに電気ポットを持たされて、一人で湯を沸かす時は
絶対これを使えと。たしかに火事はまずい、それはわかる。わかるんだが……小学生の留守番のよう
でなんだかな……。」
その禁止令を出した同居人は名探偵とはまったく関係ない鎧姿で参加していて、時折郭嘉が飲みす
ぎていないかチェックしにくる。鎧の一団は十人ほどで、全員本物の重い鎧を着けたうえで飲みまく
り歌いまくり、底知れぬ体力を見せつけていた。郭嘉が最初に心底呆れたという顔で言った。
「彼らはあの格好で地下鉄で来たらしいぞ。」
もちろん途中で地下鉄の警備員に呼び止められたが、今上映中の映画の宣伝だと言い張って、本人た
ち曰く何事もなく表参道の駅から徒歩10分の会場に到着したということだった。
こんな団体を呼び止めた警備員の勇気を賞賛するべきだろう。
「ああほら、相方がきた。」
郭嘉がグラスを持った手で龐統の背後を指した。半分ほど注がれているボウモアの水割りが揺れて琥
珀色の波が立つ。
「その言われ方はちょっと……。」
「相方でーす!」
ハイテンションに登場した孔明も同じくTシャツ姿で、こちらには涅槃と書いてある。
「酒飲みコンビ、飲みすぎてないですかぁ。」
「あいにく飲みに来てるんです。おかげさまで美味しくいただいてます。」
龐統がほぼ空になったグラスを振ると、孔明はイーッと歯を出してみせたあと、
「郭嘉さん、この人こんな大人みたいなこと言ってますけど、この前カギ持たないでマンション出ち
ゃって、入れなくなって電話してきたんですよ!どう?大人?ねえそれ大人だと思います?」
「三ヶ月前の話をまだするか。」
「この前でしょ。」
「そうだな、齢を重ねれば三ヶ月など先週も同じよ。」
いきなりカウンターの内側から声がした。ぬっと現れた男は久方ぶりだと郭嘉に言った。広い額に、
後頭部から無理やりもってきた髪をたらしているが、顔自体が大きめなのでカバーできていない。
「あんた、賈詡じゃないか。何をしてるんだ、そんなところで。」
「ふふふ。真打は最後に登場するものだからな、時節を見ておったのだ。」
「相変わらず自意識の強い男だな。そんな衣装で手品でもやるのか。」
そう言われて賈詡は赤いスーツの襟をビッと指でしごいた。よく見ると緑の縁取りがついている。
「なぜこの賈文和がそのような余興をせねばならんのだ!誰も元ネタに気づかんとはな、ちとハイブ
ロウすぎたか。いやまるでオリジナルのように着こなしてしまっているということか……。」
自意識だけで太平洋でも横断しようかという勢いである。
「ああ、その格好はもしかするとあのカップ麺の……」
名前がでてこなくて詰まった龐統の手を賈詡が両手でつかんだ。
「ピンポーーーーーン!なかなか見所があるじゃないか?ん?」
「そ、それはどうも……」
さりげなく手をほどこうとするが、心なしかじっとりと汗ばんだ賈詡の手は張り付いたまま離れない
。すると孔明が力まかせに引き剥がして龐統におしぼりを渡した。
「わしは害虫か。ばい菌か。もやしもんか。」
ぐちぐちとつぶやく賈詡に、カウンターに背を向けてスコッチを口に運んでいた郭嘉が冷静に答えた
。
「最後のは違うな。」
郭嘉が見ていたのは、店の真ん中で絶賛開催中の逆野球拳大会である。一枚ずつ脱いでいく野球拳
の反対で、負けたほうが一枚ずつ着せられていく。ただしこの場合、着せられるのは衣類ではなく鎧
なので、参加者は非常に限定されている。
「ぶはぁッ!か、勝ったっ……」
曹仁が涙目でこぶしを突き上げた。無理やり三枚重ねられている肩当の一番上がまず外されて、対戦
相手の夏侯惇の肩に乗った。崩さずにはずしたり乗せたりするにはコツがいるようで、張遼が絶妙な
バランスでさばいている。負け続けの夏侯惇にはすでに七着分くらいの鎧が着せ(乗せ)られていた
。曹仁と夏侯惇のほかは全員身軽になっているので、無責任なヤジが飛んでいる。
「惇兄ー!どうした膝曲がってるぞー!減点10-!」
「うるさい!くそ!だいたいな、なんでクリスマスに男ばっかり二十人も集まってんだ!お前ら他に
行くとこないのか!」
「それを言っちゃあおしまいだー!」
「そうだそうだー!」
「よし、挑戦させていただきまーす」
すでに勝ち組にいた徐晃が人の輪の中央に進みでる。お前はもう脱ぐもんないだろと夏侯惇に言われ
、何か着てると落ち着かなくて、と太鼓腹を叩いている。
「勝ったら脱がせてもらいますわー!」
やめろ引っ込めの怒声が飛び交う中に、いつの間に移動したのか、孔明が寄っていった。
「私も脱ぐ!」
「それはやめろマジで!」
「お前はシャレにならんからどっか行っとけ!」
重さと暑さで文字通り頭から湯気を立てている夏侯惇の怒声をしゃらりと受け流して、孔明は徐晃と
じゃんけんを始めるらしい。
どっちが勝っても外野がなんとかするだろうと割り切り、龐統はポート・エレンをグラスに注いだ。
だんだん飲むペースが早くなっている郭嘉は笑い上戸らしく、決着のつかないじゃんけんを見ながら
声を上げて笑っている。
「あー楽しかったー!」
店を出たところで孔明が、んーっと伸びをした。
酒が尽きたのでこれにて散会!と曹洪がシメて、クリスマスだか忘年会だか曖昧になった騒ぎは終わ
った。鎧の一団は迎えに来た軽トラの荷台に鎧ごと詰め込まれ、これからまだ飲むのだと言って去っ
ていった。ちなみに彼らは鎧の下になぜか桜吹雪プリントの肌襦袢を着けていて、途中検問にでも引
っかかったらヤのつく稼業の出入りだと思われること間違いなしである。
夜の街に消えていく軽トラを見送って孔明が言った。
「あれー珍しい、お目付け役も行っちゃいましたねー。」
「朝まで帰れないだろうな。私は車を呼んであるが、途中まで」
送ろうか、と言いかけた郭嘉が、うひゃっと変な声を出した。黒いコートの肩を背中のほうからつか
んだ手と、海坊主のような賈詡の頭がのぞいている。
「ふふふふ、では甘えるとしようか。」
「誰が誘ったかッ!手を離せ手を!」
「お前とわしの仲だろうが。送ってくれても罰はあたらんぞ。」
つかつかと歩み寄った孔明は賈詡の襟首をつかんで無造作に投げ捨てると、いいもの見ちゃったとい
う顔で振り向いた。
「郭嘉さん、背中ダメな人なんだー」
「特にダメじゃなくても気持ち悪いぞあれは。」
「でも特にダメなんだ。」
「……。」
たいそうな弱みを握られた気になるのは何故だろうな、と言われた龐統は、よくわかりますとしか答
えられなかった。
駅までの道は人通りが多く、ほんの10分ほどの距離がなかなか進まない。
「やっぱり乗せてもらえばよかったかな。」
「方向逆だろ。」
「まっすぐ歩けない誰かさんのために言ってるんですけど。」
「歩いてる。」
口ではそう言うものの、しこたま飲んだアルコールが一歩踏み出すごとに全身に回って、本当にまっ
すぐ進んでいるかどうかはわからなかった。はぐれたら面倒だからという理由で手をつながれている
が、ついていけばいい状態はたしかに楽だ。周囲のざわめきと冷気と、夜の街並みを飾るイルミネー
ションのせいで、現実感が薄れているのかもしれない。
まあ急がないしね、と孔明が言った。
ひっきりなしに行き交う車と人ごみの中で、ただ、繋いだ手だけがリアルな温もりをもっていた。
散会
※あとがき
※クリスマスどころかもうすぐ晦日というタイミング。かっこ悪くても気にしない。
※郭嘉さんは孔明の大学のゼミの先輩。
※賈詡がひどい扱いで申し訳ない。好きなんですけど。魏軍の軍師の中ではベスト・オブ・プリティ
だと思ってるんですけど、なんかあんなことに。申し訳ない。