夜の長江の水面に無数の灯りが揺らめいている。
停泊する船や港に掲げられた孫呉と周家の旗は篝火で下から照らし出され、風ではためくたびに濃い陰影が生まれる。
荊州で病死した前大都督・周瑜の葬儀が執り行なわれた後、各地からの使者や将卒達は朝にはそれぞれの場所に出立すべく、船出の用意に余念がない。

 荊州の劉備からは軍師の諸葛亮が使者として弔問に訪れた。彼に対して少なくとも好意は持たない孫呉の高官たちは眉をひそめたが、当の本人はまるで意に介さず、孫権に劉備からの書状を渡した後はあちらこちらをうろうろしては魯粛に抑えられていたらしい。







「龐統!」

 逗留している部屋に戻ろうとしていた龐統は、普段は耳にすることがない調子で呼び止められ、一瞬足を止めた。すぐに何事もなかったように歩き続けたたものの、いきなり後ろから飛びつかれ前につんのめりかけた。

「龐統殿でしょ?ほらやっぱり!」

完全に背中に乗り上げている人物は、龐統より背が高く、体格もいい。

「重いから降りろ。人違いだったらどうする気だ。」
「呼んでるのに知らん顔で行っちゃう人なんか、貴方しかいませんよ。」
「誰だってあんな声で呼ばれれば聞こえない振りをする。」
急に背中が軽くなり、振り返ると魯粛が孔明の袂をつかんで立っていた。龐統の背中からひきずり下ろしてくれたらしい。
礼でも言うかと思った直後、魯粛は追い詰められた人間の悪あがきのような笑みを見せて言った。

「お二人は旧知の仲でしたな!では孔明殿がお帰りになるまで積もる話でもされてはいかがか、いやそれがいい!頼みましたぞ龐統殿!」
「……」

断られそうだと悟ったのか、魯粛は素早い身のこなしで孫権の居城の方へ走っていってしまった。

「……相当、厄介者扱いのようだが。」
「何もしてませんよ。」
心底、不思議そうに孔明は答えた。
その言葉は粟一粒ほども信用せず、龐統は数年ぶりに会った孔明をあらためて眺めた。
「ずいぶんまともな格好だな。少し驚いた。」
「そうですか?」
懐に無造作に挟まれた羽扇には見覚えがあるが、きっちり着込まれた衣類も乱れなく編まれた髪も、荊州の桃源郷に住んでいた人物とは月と地面ほどの隔たりがある。

「でもすぐわかったじゃないですか。貴方こそ、その腕は?」

龐統の左腕は肩の少し下からなくなっている。

「この前の戦でやられた。」
うわー、と言いながら孔明が寄って来て袖に触れようとするので、龐統が左に下がると、下がった分だけまた近づいてくる。
じりじり接近と後退を繰り返しているうちに、いきなり右腕をつかまれて引き寄せられた。

「落ちますよ。」

確かに後一歩下がれば池の縁石で、体勢を崩せば落ちていたかもしれない。
そもそも道を歩いていた龐統がそんなところに乗り上げそうになったのは、孔明が近づきすぎたからに他ならないが。


「夜は気をつけないと危険です。」
何が危険といって、諸葛孔明ほどじゃないと思ったが口には出さず、龐統は右腕を揺すった。
「離していい。」
「ええ?もう?久しぶりに会ったんだから抱きついてくれてもいいのに。」

膝から力が抜けそうだった。
決して間近で目にする孔明の、知的で端整な顔に気をとられたわけではなく、言っていることの間抜けさゆえに。
元来、ほとんど他人に振り回されない龐統ですらこうなのだ。
魯粛の心労を思えば、この状況も恨まずにすみそうだった。


しかも孔明はまだ龐統を離していない。
灯火が立てられた道からは反れているため、もみあっていても目立たず衛兵にも気づかれずにすんでいる。しかし呉にとってはよそ者同士の二人がこそこそと密談していたなどと言われようものなら、後々面倒なことになるのは明らかだ。


「いい加減に離せ。」
さほど力が入っているわけでもないのに、振りほどけない。
「い・や・で・す。」
何が楽しいのか、笑みを浮かべた孔明はわざわざ龐統の耳元に口を寄せて返した。
「貴方が公安に来るなら離してあげます。」



思わず苦笑がもれる。まるで利かん気の子供を相手にしているようだ。

「……口説くなら時と場所を考えろ。」

「死者を送る場をないがしろにするつもりはないですが、貴方も逃がしませんよ。」

いつの間にか孔明の右手が龐統の左腰にまわっている。龐統は決して小柄なほうではないが、孔明が頭抜けて長身なので抱え込まれると孔明の首筋のあたりに顔がくる。

「私の意志は無視か。」
「いつまでも落ち着かない貴方がいけないんです。腕まで失くして、呆れます。」
思いのほか真面目な声音は胸に刺さる。

「今、逃げない理由にはなるだろう。」

そう答えると、孔明の腕に少し力がこもった。



片腕では押しのけられないと自分に言い訳までして温かい懐に包まれているような男に、執着などするなと本当は言いたい。

何一つ適わないと知っているのに、思いのままにはならないような振りをして、かろうじて矜持を保っているような男に。



やがて孔明が言った。
「左腕、拾えなかったんですか?」
「こだわるな。乱戦だ、転がったのは見たが、そこまでだ。」
「あのアザが好きだったのに。あーもったいない。」

真面目さで言えば、先ほどよりもさらに真面目に真剣に残念がっている。
物事の序列は常に自分の価値が中心で、世間で言う貴も賎もないといえば聞こえはいいが、単に移り気で忘れっぽいだけかとも思う。
そして、そう思うたびに龐統は孔明に対して屈折したものを引きずっているのが馬鹿らしくなって、そこらに投げ出すことができる。

「貴方のことだから、覚えていないんでしょう。」
「昔よくお前が……」

吸ったり舐めたりしていた、と自然に口に出しそうになり、危うく言葉を押しとどめる。



 肘の内側に生まれつきあったうす赤い小さなアザが、まるで吸われた後のようだと言いながら、孔明自身がその上から吸いついて色濃くしていた。


 自分から思い出してしまったことで、そのときの情景がいっそう強烈に蘇る。
心のみならず、身体にまで。
手に垂らした香油、湿度、だるくなった舌の感覚。



「孔明ッ」
策略に気づき、怒気をはらんだ龐統の声にも孔明はまるでひるまない。それどころか、身をよじって逃れようとする龐統の耳に唇をあてて囁いた。


「やっと呼んでくれましたね。」


左腰にある孔明の手に、ゆっくりと力が加わっていく。帯の下に指先だけがほんのわずかもぐりこみ、衣の上から腰骨をなぞっている。
刺激がかすかであればあるだけ、かえって意識が集中し、何倍にも増幅して感じ取ってしまう。
「……こんな場所で何を考えてる。」
「何もしません。残念でしょ。」
歯がかすめるように耳にあたる。それだけで、龐統の身体は勝手にその先の刺激を思い返し、待ち望んでいる。

「勘違い、だ」

どこからが孔明のたくらみだったのか、おそらく柔らかな部分を強く吸われる感覚を、自分から思い出してしまったのがきっかけの一つであるには違いない。永遠に失われたその部分が、じわりと熱くなった気がした。


「貴方の本質は淫らだ。それを満足させられる官能は、この地にはありませんよ。」


握っていた龐統の右腕を持ち上げ、肘の内側の少し下を孔明が強く吸った。

「……ッ」

左腕にそうしたように何度も吸っては歯を立てている。
こそばゆいだけの行為であるはずが、桃源郷の記憶と重なり合うことで息が荒くなるほどの昂ぶりをもたらす。
額を孔明の肩に押し当て、龐統は喘ぎそうになるのを耐えた。
きっと右腕には失ったものと同じような痣ができている。
「そんな印をいくらつけても……日が経てば消えるぞ」

孔明が口を離した。

「消えないうちに、またつけます。」

「朝には帰るんだろうが。」

「士元殿が公安に来るんですってば。」

いつの間にか決定していたらしい。だが右腕は自由になったので、龐統はすぐに袖に隠した。鬱血している部分が疼くように思えて、自分の目から隠したかった。
何もしないと言いつつこの有様だ、孔明の言葉は本当に信用ならないのだと、もう何十度目になるかわからない戒めを自分に科しながら、すぐ近くの樹に背を預けて天を仰いだ。


この身勝手な龍に天の裁きがくだりますように。


「あ。」

孔明も空を見上げている。

「降ってきましたよ。さっきまで雲もそんなになかったのに。」
「ずいぶん軽い量刑だ。」
「え?」
そう言っている間にも、雫は細い銀線となって夜空と地を結んでいく。
「行きますよ、ほら!」

目の前に孔明の手が差し出される。

「早く!」

この手をつかんでしまったら、間違いなく明日の朝には船の上だ。

遠雷が聞こえ、とりあえず木の下からは出ることにして、後は考えず龐統は一歩踏み出した。









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