昼下がりというには少し遅い、半端な時刻に徐庶と龐統は空いている飯屋の店先で向かい合って麺をすすりこんでいた。
「先日、劉表殿からの仕官のお誘いを断ったとか。」
「早耳だな。」
「理由をお尋ねしてもよろしいですか。」
立春が過ぎたばかりのまだ寒い時期だが、熱い麺のせいで徐庶は額に汗をかいていた。対して龐統は、食欲がないのか飽きたのか頬杖をついて箸の先をぼうっと見つめている。
しばらく返事がないので、理由は聞かせてはもらえないのかと徐所があきらめかけた頃、やっと応えがあった。
「理由……と言われても、私が断ったわけじゃない。」
「は?」
最後の一口を食べ終わって龐統を見ると、彼は完全に食べることを放棄して箸を器の上に載せるところだった。
「このところずっと読んでいたものをやっと読み終わって、酒を飲んでから寝た。一眠りもしないうちに劉表の使者が来て、出直してくると言うからもう来なくていいと言った。それだけだ。」
「……間が、なにやら抜けているような気もしますが。」
「……読んでいる間、風呂に入ってなかった。」
なるほど、と徐庶はうなづいた。劉表の使者にとっては、暑い季節ではなかったのが救いだろうか。龐統の態度が鋭気にかけるのも寝不足のためなのだろう。
「しかし結局のところお断りしたということではありませんか?あなたの才を使うには、この国の君主では不足ですか。」
自分だけ白湯を椀に注いで飲んでいた龐統は、欠けた椀の縁越しに徐庶を見た。
その目は笑っている。
親しみ深く、冷ややかに。その笑みを向けられた者に受容も拒絶も一任して、本人は身を翻して立ち去ってしまうようなところがあるので、龐統と相対するとき徐庶は常に退き際を頭の隅においている。その緊張感は心地よくもあった。
椀を卓に戻して龐統が言った。
「戦をする気のない国に軍師はいらんだろう。」
「……ここが戦火の地となるのをお望みなわけではありますまい。」
「だから困るんだ。」
この人は焦れていると徐庶は直感的に悟ったものの、口には出さなかった。戦地など掃いて捨てるほどあるこの時代に、軍師を志しながらあえて中立地帯の荊州に留まって趨勢を見ている自虐的な矛盾は徐庶の中にもある。だから困る、という言葉には能う限りの真意がこめられている気がした。
この苦しさについてもっと踏み込んだ話がしたい、と心を決めて龐統にそう言いかけた徐庶を、むせ返るほど濃密な花の香りが包んだ。
ずしっと右肩が重くなる。思いっきり不貞腐れた声音が耳近くでする。
「じゃあ許都にでも行けばいいじゃないですかー。荊州の鳳雛だと言えば大事にされますよー。」
「こ、」
孔明、と言ったときにはもう顎を徐庶の肩からはずして斜めを向いて立っている。
前を見ると龐統が苦笑していた。
「まだ怒っているのか。」
ちらりとそれを見た孔明は、
「私が怒っていようがいまいが、士元殿には関係ないんでしょ。」
ふん!と思い切り顎を跳ね上げた。
どんな事情があるにせよ、人の頭上で痴話げんかを繰り広げられてはたまらない。
徐庶は少しずつ孔明と反対側へ位置をずらしていった。
「どこ行くんです?徐庶殿も聞いてくださいよ、この人ひどいんだから。」
僧衣の肩口をつかまれ、徐庶は体をこわばらせた。 孔明の香りがうつってしまいそうで心配なのだ。
「約束破ったくせに、破ったことを忘れてるんですよ!ありえな……なんですか徐庶殿、その顔。」
「あなたにも約束という概念があったのかと……」
口を滑らせた、と思ったときはもう遅かった。
あからさまにムッとした表情で、孔明は口を尖らせた。こういう状態になると、何を言い出すかわからない。
それを悟ったのか忍び笑いをしていた龐統が声をかけた。
「孔明。」
「はい?」
振り向いた孔明に自分の隣をトントンたたいてみせる。
「座れ。落ち着かん。」
「はいっ」
孔明は目を疑うほどの早さで龐統の隣に腰を下ろした。
「思い出しもしなかったのは悪かった。埋め合わせはするから、徐庶殿に迷惑をかけるな。」
さり気なくひどいことを言っている。
「なんかそれって、謝られてる気がしませんけど。」
案の定、孔明は不服そうな面持ちで龐統ににじり寄った。
「謝ってる。」
「心から?」
「……」
嘘でいいからそこは心からだと言ってくれと徐庶は本気で願った。孔明が激すると、言葉が暴走する。その場にいる者はしばらく再起不能になりかねないほどの痛手を受ける。とばっちりでそんなことにはなりたくない。
「士元殿……っ」
途中まで怒気をはらんだ声が後半蕩け、成り行きを見ていた徐庶は目を見張った。
龐統が孔明の額に額をつけて何か小声で言っている。
いちいちうなづいている孔明の頬が上気していく。
やがて顔が離れると、孔明は別人のような満面の笑顔で舞い上がった空気を撒き散らしながら立ち上がった。
「今度こそ必ずですよ。」
「わかってる。それより、さっきから待たせてるんだろう。早く行ってやれ。」
目線の先では金の髪や黒い肌の女たちが、目を吊り上げ歯軋りまで聞こえてきそうな表情でこちらを見ている。
「うーん……じゃあ行きますけど、士元殿も熱があるんだから早く帰ったほうがいいですよ。送りましょうか?」
最後のほうは疑問形というよりも、ほぼ決定の言い方だったが龐統はきっぱりと首を横に振った。
「悪化するに決まってる。 」
ひらひらと手を振りながら孔明が去っていくと、徐庶は深い疲労感に襲われた。
「……龐統殿。」
「ああ、迷惑をかけたな。何か約束をしてたらしいんだが、本を読んでるうちに忘れていた。」
実はまだ思い出してない、と言って龐統はにっと笑った。
「熱があったのですか。それなら、私などと話していないでお休みになればよろしかったのに。」
「……帰りたくない。」
「は?」
そういうことは孔明に言ってやれば喜ぶだろうに、と思いつつ龐統を見ると、頬杖を付いて往来を眺めながらぽつりと言った。
「出るときに書の山を倒して、足の踏み場もない。……帰りたくない。」
「……私でよろしければお手伝いしますが。」
手伝うどころか自分でほぼ全域を片付ける羽目になるのは薄々わかっていたが、それは別段気にならなかった。そろそろ日も暮れる頃合で、熱がある者をいつまでも戸外に座らせておくわけにはいかない。そちらのほうがよほど気にかかる。
龐統が顔は往来に向けたまま、目だけでこちらを見て笑った。
「付き合いがいいな。ついつけこみたくなる。」
「片付け程度ならいくらでもつけこめばよろしい。行きましょう、本格的に風邪をひいたら孔明殿が看病に来ますよ。」
促されて立ち上がりながら、龐統は渋面をつくった。
「その脅し文句、ありえん。」
本当に脅し文句だと思っているのかどうなのか、先ほどの光景を目にした後では甚だ疑わしい。
「あなた方は、互いに繋ぎとめあっているのですね。」
思ったままを口にしてみれば龐統はますます顔をしかめるが、距離自体は縮まるのがわかり徐庶は皮肉な思いで歩き続けた。
終