その日、買い物をしている間中、徐庶は背後から視線を感じていた。
折々に振り返って見はするのだが、予想している人影はそこにはなく、それだけに感覚は確信に変わっていく。
最後に羹を買って店を出、徐庶は振り返らずに呼んだ。
「孔明殿!おられるのでしょう。出てこられてはいかがですか。」

 晴れた午前中の空にひらりと白い袂がひるがえり、徐庶の視界を遮った。
その衣からか孔明の体からなのか、たちこめる花の香りに目まいがした。
食虫植物の花畑におかれたような気分で憂鬱に振り向くと、頭一つ高いところで孔明が微笑している。
「このままついて行こうと思ってたんですけど。呼ばれたから出てきました。」
「ついて来られては困るのでお呼びしたのです。」
「え?なんで?士元殿のところでしょ?私は行ったらいけないんですか?」
「少なくともご一緒にというわけには参りません。」
切り口上で徐庶は背を向けた。
長く向かい合えば向かい合うだけ、こちらが消耗する。


「徐庶どのー」

「ついて来ないでください。」

ビシッと答えたとたん、後ろにいた孔明の妖しい気配が消えた。

おとなしく帰ったはずがない。

すぐに思い当たって、あっ、と叫んで衆目を浴びつつも買ったばかりの熱い椀のおかげで走り出すことはできず、徐庶は一心不乱に歩き出した。










 発熱時特有の関節痛と肌寒さで、この三日ほど眠りが浅い。
食欲もなかったが、尋ねてきた徐庶がそれでは治らない、何か食べ物をもってくるというので待っているうちに、少し眠っていたらしい。
なぜか体がじんわりと温かい。
心地好さに、とろとろとまどろみそうになり、不意に龐統は跳ね起きた。

「あ。」

ぽかんとしている孔明の顔が、ぐらりと二重に見えて額を押さえた。目眩の理由は急激な動作だけだろうか。
「……孔明。」
「はい。」
「何をしているつもりだ。」
「触ったら熱があったから温めてたんですよ。」
しれっと答えて笑う顔に、まあそうだろうなと思う。それ以外に、熱で寝ている者の寝台にもぐりこんで密着する理由はない。
ないといったらない。

どこを触ったかもあえて聞かなかった。


寝ている間に汗をかいたらしく、龐統が湿った夜着の感触にぶるっと身震いしたとたん、孔明は目ざとく気づいて嬉々として上掛けをはねのけた。
「着替えましょう!」
その姿に、龐統とようやく追いついた徐庶は同時に叫んでいた。


「「なんで裸なんだ!!」」







 人を温めるときは脱ぐものだという孔明に、ここは雪山でもなければ誰も遭難していないということを徐庶が懇々とかつブチ切れ気味にさとし、それを聞きながら龐統は体をぬぐって夜着を着替えた。


 徐庶が買ってきた羹をあたため直して卓に置く頃には、孔明は寝台を占拠してすっかり寝こけていた。

「具合はいかがですか。」
「熱は下がったような気がする。すまんな、手間をかけさせた。」
合間に熱い汁を口に運びながら答えると、徐庶は穏やかに首を振った。
「三日前、あなたに熱があると早く気づいていればこじらせずにすんだかも知れません。しかし、孔明殿に言われなければ、私は気づかぬままだった。」
「……まさか、気にしてるのか。」
どちらかといえば思いつめやすい性格なのは知っていたが、そんなところにまで及ぶとは。

「額を触ったからわかったんだろう。」
「……そうですね。」
そういうことにしましょう、と徐庶は言った。


 熱っぽいのは知っていて、帰ろうとしなかったのは龐統自身である。
頭の回転が速く思慮深い徐庶との会話はいい刺激になる。しかもその後、取り散らかした家の中まで片付けてもらったのだから、礼を言いこそすれ徐庶が責任を感じる必要はない。

 龐統は、徐庶が本当に恥じているのは、己の観察眼の至らなさなのだろうと勝手に結論づけて、椀に残った汁をすすった。
真面目で親切と評されるような人間とはつきあわずにきた龐統だが、徐庶の一見静謐な目の奥にある暗い危うさは好きだった。
徐庶自身がその暗さと葛藤していることに気づいてはいても、手を貸すことは出来ない。
願わくば、その闇を抱えたまま飲まれずに生きてほしかった。






とりとめのない話をしているうちに日は傾いていき、暗くなった室内に龐統が灯を入れた。
壁を向いている孔明は、話し声にもまるで反応せず肩を上下させて眠り続けている。
やや神経質気味な徐庶は、人の寝台でそこまで熟睡できる孔明の神経がわからない。

「孔明殿は起きませんね……。」
「一度寝始めると、いつ起きるかまるでわからん。」
「お困りになるのでは。」
「昔からだ。」
慣れているという意味だろうか、龐統は口元に笑みをため、孔明が起きているときには決して見せない童子を見るような目を寝台に向けた。そこは灯りの輪からはずれ、暗がりになっている。

「昔から、あの人はああなのですか。」
何の気なしに徐庶がそう言うと、和らいでいた龐統の表情が変わった。
眉を寄せて宙をにらむような目つきで、何か言いかけようとしては口を閉じるということを繰り返している。

「ああ……といえばああ、だったような……」

もしや言葉に詰まっているのかと、非常に珍しいものを見る思いで徐庶は続きを待った。彼の記憶にある限り、鳳雛の口が人物評で迷ったことはない。むしろ躊躇いがなさすぎる口調で敵を作ることが多いほどだ。
逆に言えば、それほど孔明は語り難いということなのか。
「……よく覚えていないが、今のほうが、各段にわかりやすくていい。」
何かをあきらめたような口調で、投げ出すように言った後も龐統はまだ虚空をにらんでいる。
「そう言えるのは、貴方くらいのものでしょうね。」

足元が冷えてきている。夜が近い。
徐庶は卓の上で組み合わせた自分の指先に視線を落とした。

「あなたが今あきらめたことは、あの人を人間の言葉で語ることだ。しかし人という枠を外した場所でなら」

どぉん!!

重低音とともに卓が揺れ、天井からパラパラと粉塵が落ちてくる。
名士龐徳の親族としては似つかわしいとはいえない家は、すこし寿命を縮めたようだった。
あっけにとられて立ち上がり、何事かと見回す徐庶に対して、この家の主は悠然と座ったままだ。

「……昔から、だ。」

震源地は暗がりの寝台で、おそらく寝返りをうった拍子に派手にころがり落ちたと思われる本人は、床に大の字になってもまだ睡眠続行中である。口の端で光ったのはよだれだろう。鼻から提灯が出てもおかしくない勢いで爆睡している。

「あ……」
力が抜けた。どういう落ち方をしたら、あんな音がするのか心底不思議だ。龐統が、雨の日に川原に放置された子犬を見るような目を徐庶に向けている。
「あれをあまり気にしないほうがいいと思うんだが……。」
「……。」

気遣うような視線が何故か悲しい。こういうときこそ普段のようにニヤニヤ笑ってくれれば、徐庶もいささかの気まずさを孔明をたたき起こすことで誤魔化したりもできるのだが。
同情という言葉を知っているかどうかすら疑わしい龐統にそんな目で見られては、自分がひどく哀れに思えてくる。

「……帰ります。」









 外には月が昇りはじめている。龐統は落ち込んだ徐庶を町外れまで送って帰ってきた。気にするなと言っても無理なのかもしれないが、せめて理解しようとか歩み寄ろうとかそんな蛮勇は捨てるべきだと言ってやりたくて言えなかった。
徐庶は何か思い違いをしている。龐統と孔明は同じ世界にいるわけでもなければ、(恐ろしい表現だが)対の存在でもない。
あれをただあのままに受け入れているだけなのだ。

 春は名のみで夜はしんと冷える。寝ている孔明は床に放置したまま、火事は起こさないように灯を消してきた。
暗い家に戻り手探りで灯をともそうとすると、闇からいきなり白い手が伸びて龐統の手をつかんだ。

「明かりはつけなくていいでしょう」
「起きたのか。」
「寒くて。」
陳腐だな、と答えながらも人の温もりの残る寝床は心地よく冷えた体を包み込む。

結局、この家に朝まで灯りのつくことはなかった。









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