立っているだけで汗がじっとり肌にしみだしてくるほど蒸し暑い日。
まだ朝だというのに今日は一体どこまで暑くなるのか、考えるだけでもうんざりする。まとわりつく左袖や裾をさばきながら歩いていた龐統は、廊下の角を曲がろうとして誰かにぶつかりかけた。
龐統よりも一瞬早く足を止めた相手は馬家の五男坊だった。
「おはようございます!今日は早いですね。そんな恰好でどうかなさいましたか?あ、髪も結われてますね珍しいことは重なりますね!」
馬謖の言うとおり、まだ昼には随分間がある時刻で、いつもの平服ではなく一応は文官と分かる姿をしている。
 昨日の夕刻、退出しようとした龐統を引き止めた孔明が、明日は御前会議だからくれぐれもきちんとした恰好で来るようにと念を押し、万一平服だったら無理やりにでも着替えさせると言った後で、「私はそれでも構いませんけどね」と満面の笑みを浮かべた。
それでもなお平服にこだわる理由もないので、しぶしぶではあるが絹の袖に手をとおしたのだった。

「ああそうだ御前会議でしたよね。来月あたりから私も参加させてもらえるんですよ。ていうか書類そろえてるの私なんですけどね!ところでその髪、ご自分で?」
「起きたらもうこうなってたんだが、ほどいている時間がなかった。」
慣れないので多少肩も凝るが、結果的にはわりと涼しいから現状維持である。
「起きたらってどういうことですか?」
当然の疑問を発しつつ龐統の背後に回った馬謖は、けったいな声をあげた。
「三つ編み?!起きたら三つ編み?!どういうことなんですかッ。」
背中で起こった戸惑いなのか憤りなのかよくわからない感情の爆発に、龐統は反射的に一歩前へ出ようとした。ありていに言えば逃げようとした。
が、その肩はがしっとつかまれ、どんよりオーラとともに地を這うような馬謖の声がする。
「……僕も、孔明様に三つ編みにしたいって言ったことがあったんですよ……」
一人称が僕になっている。素になってるなーと思いつつ、龐統はさりげなく肩の手を振り払おうとするが、文武両道を自認する馬謖だけあってなかなか力が強く、コツを心得ている。
「そしたら、な、な、な、」
鼻声になってきた。この蒸し暑いのに、うっとうしいことこのうえない。
「長さが足りないって言われたんです!」
「……そろそろ帰りたいんだが。」
「そ、それなのに、孔明様ひどい!」
「じゃあ孔明にそう言ってくれ。」
「言えるわけないじゃないですかー!」
龐統には今ひとつぴんとこないが、馬謖の孔明への心酔っぷりは有名である。
敬愛する師に駄々をこねたりはできないというのはもっともだが、城内の廊下で号泣するのはありなのだろうか。
すでに出仕の時刻は過ぎているので廊下を行き来する文官たちもいるのだが、なんだかみんな遠回りしていく。
「龐統殿ずるいー!!!」
「うるさい……」
振りほどくことは諦めて、とにかく前へ進もうとすると、肩をつかんだままついてきた。
じわじわ五歩ほど進んだところで、急に背後が静かになり、
「……すみません、取り乱して。」
「正気に返ったら放してくれ。」
「あのあれですよね、起きたらそんなだったってあの……」
結局、うわーんと声を上げて泣きながら走っていく馬謖。
振り向いてその背中を見送りながら、やっと自由になった肩を揉み解した。

 そういうあれもなにも、昨日の夜は翌朝に備え酒も控えめにして一人で早寝をしていたのだ。
夜が明ける頃、暑くて目を覚めた。かけていなかったはずの夜具がなぜかきっちり肩の上までかけられていて、変な感覚に手をやってみると、どうやら髪が編まれている。
 昔はそれにくわえて、隣にその親切な当人が寝こけていたりしたので、感覚が麻痺しているのかもしれない。たいして動揺もせずにそのまま登城してしまったことを、龐統は今になって後悔した。



「会議の後、すぐに帰らないでくださいよ。その後が仕事なのに」
翌日、軍師の執務室で孔明がぶつぶつ言いながら書類に朱をいれている。一夜明けても蒸し暑さは変わらず、他の文官が出払って室内には二人しかいないというのにひどく湿度が高い。龐統は聞こえないふりで、だらしなく開いた胸元に誰かの忘れ物の扇で風を送っていた。もちろん涼しくはないが、こんな日に一本しかない腕で筆を握って仕事をするほど劉備に忠義も感じていない。放っておいても勝手にあおいでくれる扇があったら便利だとかなり先進的なことを考えていると、孔明がちらりとこちらを見て言った。
「馬謖を泣かしてたそうですけど、気に入らないことでもありましたか?」
「……泣かしてない。」
事実とまるで異なるとはいえないにしても、その言われ方はあんまりである。
「そう聞きましたよ。」
「誰だかしらんが解雇したほうがいい。そいつの情報はまるであてにならんぞ。」
「ご主君ですが。」
「……。」
本をただせば孔明が悪いのではないだろうか。だが事情を説明するのも馬鹿馬鹿しくて、龐統は卓の上にずるずると突っ伏した。
「馬謖はあと六、七年もすれば軍師としてかなりいけるようになりますから。あんまりいじめないでください。」
「七年か。気の長い話だ。」
「一度の戦なら即戦力でいいですけどね。」
劉備軍の軍師層が薄いのは驚くばかりで、長期的に人材を育成しようとしている孔明の目論見はじゅうぶん理解できる。またそれほど時間をかけて育てるつもりになっているなら、馬謖にはそれだけの見込みがあるのだろう。
「そういえば今日は見ないな。」
今頃気づいたんですか!と孔明は大仰な口調で言った。
「あなたがいじめたからひきこもってますよ。いないと不便で、呼びにやらせてますけど。」
「そんなに気が利くのか。」
「資料綴じるのが上手いんです。」
重宝されているには違いないだろうが、おそらくそれは本人の目指した方向ではない。たぶん。
体も起こさず扇をつかいはじめると、一段落ついたらしい孔明が筆をおいて寄ってきた。
「暑いなら髪を結ってあげましょうか。」
「断る」
「じゃあ今度はなかなかほどけないように、少しきつめに。」
今自分は断らなかったか?暑さのあまり承諾してしまったか?と思ってしまいかねない自然な口調だったが、そこはさすがに10年以上ものつきあいなので騙されない。
「乱れるからじっとしててください!」
「断る!仕事しろ仕事!」
「言っときますけど、あなたの分はきっちりたまってますからね。後で片付けてもらいますよ?」
「今やる。」
「後でいいですからじっとして!」
背後から押さえようとする孔明も跳ね除けようとしている龐統も、軍師中郎将。他の文官がもみ合う二人を目にしても、絶対に「何やってんだ、あんたら」とは突っ込めない地位である。
そこへやってきたのは、空気の読めないこの男だった。

「お呼びですかー?!」

喜色満面、スパーンと扉を開けた馬謖はそこで繰り広げられているどつき合いを目にして固まった。
「あ、いいところへ。そこに積んである竹簡をまとめて上から二番目左から九番目の棚へしまっておいてくれますか。私は今、手が離せないので。」
「離していい。」
「またそんな……あ、馬謖」

「うわーーーーー!!!!」

登場したときと同じ唐突さで、馬謖は廊下を走り去っていった。号泣しながら。しかも扉は開けっ放しだ。
「……。」
「……。」
「……行くならあっちの書類、ご主君に持っていってほしかったのに……。」
名残惜しそうに馬謖の去った方角を見ている孔明を強引に背中から払い落とし、龐統は立ち上がった。
すっかり汗をかいてしまった。
今日はもう帰って水を浴びて、酒でも飲んで明日の朝まで昼寝をしよう、と踏み出した足はがっちり掴まれている。
「ふふふ、逃がしませんよ。ほら、あの右の棚はぜーんぶ士元殿の分。」
上目遣いの孔明が羽扇で指し示した先には、立ってなお見上げる高さがある書類棚を、上から下までぎっちりと埋め尽くした竹簡。
「全部?」
念のために確認すると、すっくと立った孔明はにこやかにうなづいた。劉備の前ですら滅多に見せないくらいの、それはもう嬉しそうな微笑だった。
「人を働かせるのがそんなに楽しいか。」
半ば自棄気味につぶやけば、いいえ、とにっこり首を振る。
「あなたの嫌そうな顔を見ると、ゾクゾクするんですよ。あ、言っちゃった。」
龐統はため息をついた。馬謖はだまされているような気がしてならない。旧知の仲の、彼の兄に申し訳ない気すらしてくる。
「じゃあ私、ご主君のところへ行ってきますから。何か不便なことがあったら馬謖でも呼んでくださいね。」
開け放されたままの扉から孔明が出て行くのをむしろ喜ばしい気持ちで見送った後、竹簡を引っこ抜くべく棚の前に行くと、それぞれの段に【至急】【特急】【速攻】などという赤い札が貼られている。
最優先されるのはどれなのか悩みどころなのかもしれないが、龐統はまるで気にせずに適当に抜いては脇に抱えて卓についた。
すべて今日中に片付ければ問題ない。
潔く覚悟を決めて筆を持ちかけたとき、首や背中にかかる髪が普段よりも少し邪魔に思えて軽く頭を振った。
そう思ってしまったことは、孔明にも馬謖にも絶対に悟られてはいけない。




劇終


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