龐統は数日かけて荷造りをした。借りた書物は返し、もう読んだものは人に贈って数を減らした。元来モノには執着が薄いせいもあり、あれもいらぬこれも不要と整理を続けていくと、残った荷物は葛篭が三つ、生活の拠点を変えるとは思えぬまとまりかたになった。
「お運びするのはこれだけでございますか。かしこまりました。では私どもが責任を持って江陵までお届けいたします。」
ほとんどが書や地図なので、くれぐれも道中濡れないようにしてほしいと念を入れると、従父の既知だという商人は心得ておりますと答えて荷物を運び出していった。
 さて、と手をはたきながらがらんとなった家の中を見回した。四角く切り取られた窓のふちに鳥が二羽、うるさく鳴き交わしたかと見る間に飛び去っていく。小さな家は適当なところが見つかれば移るつもりで借りたものだったが、結局五年も住んでしまった。外に出て扉を閉め、もうこの扉を開けることはないのだと思ったときも名残惜しい気持ちはなかった。


 道中の荷も、わずかな着替えや人に返す書物などをひとまとめにしても片手で提げられるほどの小さなものだ。まるでそこらへ散歩にでも行くような様子で通りを往き、一軒の飯屋へ入った。飯時を少し過ぎているので店はすいている。見回すと、隅のほうにいた徐庶が立ち上がった。
 餞別だと言って徐庶は青々とした竹筒を三本差し出した。酒である。礼を言って受け取ると徐庶は少しまぶしそうな表情で言った。
「このまま発たれるのですか。」
「ああ。」
注文を取りにきた小女はこの時刻に用意できるものは魚の羹くらいだと言う。腹は減っていたのでとりあえずそれを頼むとほどなく持ってきた。
「……あの方にはもうお知らせしてあるのですか?」
「返すものがあるからな、隆中には寄っていくつもりだが、会えるかどうかはわからん。」
匙にすくった椀の中身を冷ます合間に、最近は新野あたりまでふらふらしているらしいと言うと、徐庶はわずかに首をかしげた。
「新野。なにかあるのでしょうか、そこに。」
「気まぐれだけで生きてるのでなければな。」
龐統の素っ気ない物言いに徐庶は苦笑する。
「そうでないことは、貴方が一番ご承知でしょうに。」
聞こえないふりをして、とろみのついた琥珀色のつゆとごろりと入った白身を口に運んだが、食べ終えるころになっても何の魚かはわからなかった。
「……本当に気まぐれであるのかもしれないと、思うときもあります。私のような者にはあの方は、理解の及ぶ及ばないと言う範疇を越えている。」
それでも、と徐庶は続けた。
「あなた方が互いに繋ぎとめあっていると感じた己の感覚には、多少なりとも自信があります。貴方がこの地を去られれば、あの方も遠からず出て行かれる、そんな気がしてなりません。」

 必ずしも徐庶の言葉を肯定するわけではなかったが、変化が訪れることは龐統も予感していた。外界を吹き荒れる風が大風から嵐になるにつれ、人の心にも風が起こる。そして龐統は、嵐の中に身を投じるのではなくさらに外側から観察するほうを選んだ。
まだ時期ではない。
根拠と呼べるようなものはなく、己の直感にのみ従って、住み慣れた土地とも師や友人とも離れる道を選んだ、そこに思索があったかと問われれば黙すほかはないような行動が、彼に影響を及ぼすとは到底思えない。収集した膨大な情報から有用なものを抽出し分析し導き出された結果で行動を決める、孔明はその過程を一切表に出さないだけで、気まぐれどころではなくその言動には緻密な計算が働いていることを、確かに龐統はよく知っている。


「動くにしても、もっと暖かくなってからだろう。」
「暖かく?」
「寒いのが苦手だと前に言っていた。」
「それがあの方の行動を左右するかどうか、判断できるのは貴方だからこそだと思うのですよ。」
ふと徐庶は黙り込んだ。じっと龐統を見るその顔に、窓の外から雲が影を落とした。
「龐統殿。この先、再び会えるかどうかもわからないというのに、私たちは孔明殿の話ばかりをしている。」







 隆中までは馬で行く。
そちらに寄るのなら知り合いに借りていた馬を返していってくれという、合理的な従父の依頼によるもので、龐統は慣れない馬上に揺られている。だがおかげで夜までには着けそうだった。
 徐庶には驚かれたが、これまで龐統は孔明を訪ねたことがない。いつも孔明のほうから出かけてきては龐統のところに泊まっていくので、訪れる機会がなかったのだ。先ほど閉めてきた家で、たいていは朝まで四方山話をし、いきなり眠り始める孔明を放置して寝台で寝ていると、いつの間にか孔明ももぐりこんできている。その時だけ目を覚ますがあとはまた昼近くまで寝てしまう、そんな暮らしだった。
 どうでもいいような話はたくさんしたが、考えてみれば龐統は孔明がどこで生まれたのか、なぜ襄陽に来たのかすら知らないのだ。龐統も孔明にそういったことを聞かれなかった。もっとも龐統の素性など水鏡先生の塾生で知らない者はほぼいないので、聞き出そうと思えばいくらでもできたのだが。
 だが龐統のいないところで誰かに龐統のことを聞いている孔明の姿はまるで思い浮かばない。それはたぶん龐統が遠く去っても同じことだ。


 夕刻、街道筋の小さな飯屋に入って腹ごしらえがてらに道を確かめ、種火をもらって灯りをつけた。馬上に戻り、教えられたとおり林を東へ抜けようとすると、一瞬あたりが紫色の空気に包まれたようにぼやけた。日輪が没した直後、世界が夜へ変わるまでのほんの少しの間。

「お前が鳳雛か。」

灯りなしでは行き交う人の顔が見分けられない逢魔刻、まだ月も光らないまばらな木立の中に童子が二人、此方を向いて立っている。名乗れば薄暗がりの中を足元も見ずに近づいてきた。

「鳳雛か。」
「この身はただの人の子にすぎないが、そう呼ばれることもある。」
同じ身の丈、同じ装束の童子は互いに顔を見合わせてうなづくと、龐統へ向き直った。
「孔明が待っている。」
「お前を迎えにきた。ついてこい。」
二人の童子は手をつないでほとほとと歩き出す。足取りは早いようには思えないのだが、一定の距離を保ったまま追いつくことができない。だがその通った道筋はかすかに光を発し、不慣れな手綱でも後を追うのは難しくはなかった。光の跡を追い、いつしか林を出て剥きだしの岩肌の連なる奇観の地に入る頃、前方で二人の童子が止まっていることに気づいて龐統は馬から降りた。手綱を引いて近づいていくと、彼らの背後は崖になっていた。
「来たか。手を出せ。」
「ここを降りるんじゃないのか。」
崖のことは徐庶に聞いていたのでそう言ってみると、二人はにっと笑って声を揃えた。
「言っただろう、我々はお前を迎えに来たのだ。」

 孔明が待っているから早く早くと急かされて左手を出すと、二人が左右からその手をつかんだ。
「目を閉じろ。手綱はしっかり持っていろよ。」
龐統は言われるままに目を閉じた。見知らぬ者の指図に諾々と従うたちではないが、童子の声音で一人前の口を利かれると妙な愛嬌を感じてしまうのだ。
足下から地面が消え、落ちているのか浮いているのかわからなくなり、上下左右の感覚すら曖昧になる。眠りに落ちる直前の感覚がずっと続くようだった。



 目を開けたとき、龐統は竹林の中にいた。
足元は荒地からやわらかな地面に変わり、どこからかせせらぎと虫の声がする。馬が軽く鼻を鳴らして首を振ったので手綱を離すと、すこし歩いたところで草を食み始めた。
風はないがさやさやと竹が鳴り、星はなくとも夜の艶めいた空気があたりを満たしている。
「こちらだ。」
声に振り向くと、決して小さくはない庵の前で童子が龐統を待っていた。だがその顔に先ほどの笑みはなかった。
「鳳雛。我々は確かにお前を迎えにいった。」
「だがお前はどういうつもりでここへ来たのだ。」
「徒に踏み込めば」
「―――帰れなくなるぞ。」

 一瞬の沈黙が落ちたその場に、不似合いなほど甘く濃密な香りが漂った。龐統は童子たちの背後を見た。背後の気配を視た。脳髄を直接刺激するような官能的な芳香に誘い出されるように、大きく吐いた息からためらいも迷いも抜けていく。
「……そう雛だ雛だと言ってくれるな。」
龐統は懐手で一歩進み出た。

「私は孔明に会いにきた。」

会わなければならないと思ったから、遠回りをしてまで隆中へ来たのだった。

二人の童子は左右に分かれて道を開いた。

「―――行くがいい、龐統。」
「君が戻るときは、我々が送り届けよう。」
龐統は童子の傍らを通り過ぎざま、薄い二つの肩に手を置いて軽く笑った。
「道案内、感謝する。あの崖を降りずにすんだのはありがたかった。」
二人が振り向いたとき、その痩躯はすでに庵の中へ消えていた。





「孔明!孔明、どこだ。」
人の気配のない暗い廊下をずかずかと歩いていくと、前方の扉が音もなく開いた。白い単衣姿の孔明がもたれるようにして立っている。俯き気味でも身長差で龐統からはその表情がのぞけるはすなのだが、今はただ暗くて見えない。
「孔明」
「……」
返事よりも先に眼が蒼く光った気がした。雷光のような鋭さで龐統に向けられた視線は、だがすぐに反らされて庭をさまよった。
「やっと貴方から来てくれたと思ったら、別れの挨拶ですか。」
孔明は拗ねている。それはわりといつものことなので、龐統は少し安心した。

 考えてみれば、龐統だけが、まるで慣例や常識に捕らわれない孔明の言動につきあったり突き放したりしながら対等な立場にあった。実際に同じ目線だったわけではないにしろ、そういう態度が孔明の中の何かを揺さぶったのか、龐統に対してだけはすねたり怒ったり派手に喜んだりという感情の起伏をぶつけてきた。
もっとも龐統だけにというのは徐庶の意見によるものだが、龐統は徐庶の観察眼を疑ってはいなかった。
それはきっと正しい。
そして龐統は、それを承知していながら孔明から離れようとしている。

離れるために会いに来た、その矛盾を抱いてここに立っている。

「すまん。」
「素直ですね。」
「最後くらいは。」
最後という言葉に反応したのか、孔明はやっと龐統に顔を向けた。
「……軍師になりたいならここにいればいいのに。」
「ここが戦地になるということか?」
「貴方はよくよくここが嫌なんですね。」
「ろくな軍もなく要害でもなく、水源もない。こんなところでできる戦といえば篭城くらいのものだろうが、食い扶持が多すぎる。」
「無駄飯食らいが?」
「軍師という名目のな。」
顔を見合わせて笑ったあと、孔明は思い出したようにどうぞと言って手で室内を示した。手のひらが暗がりに白く浮かんだ。


 扉の近くでジジッと灯芯の燃える音がする。膝くらいの高さの灯り台ではその一角しか照らせないので部屋の奥は暗い。
 薄縁に座した龐統の背後に孔明も横座りになった。右腕を龐統の左肩にのせてもたれてきたので、龐統は手を床について体を支えた。返すものがあって寄ったんだが、と独り言のように言うと、背中越しに孔明が何かと問うた。
「大戴礼記哀公問五義」

首筋をすべるように動いた手が、髪を掻きあげた。

「差し上げますよ。」

耳に押し当てられた唇が、でもそれは言い訳でしょうと囁いてゆっくりと耳朶を這っている。

「うん、言い訳だ。」
現に、本自体は馬に積んだ荷物の中に入れたままだ。まったくそうだと言って笑えば、横顔を見ていた孔明がうっとりとつぶやく。
「帰したくないなあ。閉じ込めちゃおうかなあ。」
首筋から肩を経て腕を撫でおろした孔明の手が龐統の手に重ねられた。
「それは困る。」
「どうして。」
「困らないことに気づいてしまったら……困るだろう。」
ただ重ねていただけの手に一瞬強い力が加わった。体の向きを変えた孔明は、龐統の正面からすっと顔を寄せた。
「ひどい人ですね。私から離れるためにここへ来たのに、私を誘う。」
間近で見る孔明の眼には、星のような輝きが現れている。
「……最後くらいは、許されるかと思ってな。」

ひどい人だ。

重なり合った唇がそう動くのを龐統は確かに感じた。生暖かい口腔で舌先が触れ合った瞬間、もう理とか知とかそんなものは何の価値もなくなっていた。自分に言い訳を用意してまで隠したかったのは抱いてしまった望みの中身か、望んだことそのものか、何から隠したかったのか、そんなものを全部かなぐり捨てるなら今しかない。離れれば再び会える証は何も無い乱世で、別れを告げに来た夜しかない。
手を伸ばして孔明の頭を抱き寄せた。その髪に初めて触れたような気がした。孔明の瞳の星は今や歓喜に踊っている。息を吸う間も惜しむような口づけの合間に、ああ、と孔明は嘆息した。
「あなたとつながりたい。怖いけどのめりこみたい、あなたを迎えいれたい!こんな、こんな風にあなたもいま滾って……」
唇を舐めると孔明は静かになった。ほうっておくと何を言い出すか知れたものではない。言葉が紡ぐ官能だけでもある程度以上の充足は得られるが、触れられる肉体がそこにあるのなら、
「触れてみればいい。」


 絹の寝具が背中でこすれてかすかな音を立てている。滑らかで艶やかな、その感触は少し落ち着かない。龐統が暮らしていた小さな家の、寝返りを打てばきしむような寝台とは比べようもない。なぜわざわざそこへ泊まりに来ていたのかと聞けば孔明は上気した顔で驚いたように言った。
「もちろん、貴方がいたからですよ。」
「……なるほど」
「……」
孔明が龐統の左膝を噛んだ。くすぐったいのでやめろと言ってみても、内側の骨にしつこく歯を立ててくる。
「孔明……っ」
無防備な部分に弱い刺激を受け続けたせいで、自分でも気づかないうちに体が昂ぶりはじめている。いや、すでに熱を帯びていたからだがさらに敏感に、貪欲に快感を吸収しようとしている。やめさせようと伸ばした手が、孔明の頭を引き剥がそうとはせずに逆に押し付けようとしている。びくっと左脚が震えた。
「あ。」
何に気づいたのか、孔明が内腿へ這い上がろうとしていた唇を離して、自分の頭をまさぐっていた龐統の左腕を握った。
「これ……似てますよね。」
握った腕を軽く捻ると、肘の内側の少し上を舌先でつついた。
「誰かに吸われた跡に。」
薄赤いその小さな痣は生まれつき龐統の左腕にあった。もちろん孔明も今までに何度も見ているはずだった。
「ほら、こうしてみると見分けがつかないくらい。」
わざと腕を持ち上げて、龐統に見えるところで孔明はそこに唇を当てた。
「……っ!」
龐統が短い声を上げたのは柔らかい部分を吸われたからではなく、そちらに気をとられている間に昂ぶりの根源までもぐりこんでいた孔明の左手のせいだった。しなやかな指は無遠慮な動きで龐統をあおっていく。
「は、……っ」
ずきずきと痛みを感じるほどそこに血が集まっていくのがわかり、無意識に孔明の肩をつかんだ。
白い肌は龐統の知るどんな女よりもきめ細かく吸い付くような感触で、龐統を受け止めた。同時に龐統は気づいた。孔明の肌から香るこの花のような瑞々しい甘い香り、これに良く似た果実を知っている。
「何を考えてるんですか?」
孔明が龐統の身体をまたいで上から顔をのぞきこんだ。握っていた左腕は寝台に押さえつけて上体をかがめ、目を合わせたままゆっくりと唇を重ねた。
「……!あ、こ、孔明……ッ!」
重なったところが、否、ずぶずぶとつながっていく部分が、熱い。
「あ、あ、……っ」
焼き切られそうでたまらずに身を捩った。その分だけつながりは深くなり、孔明があえぎながらのけぞった。白く見えるほど薄い金の髪が首に、肩に、胸に、細く幾筋もからみつく。陶然とした表情で孔明が腰をゆすりだし、龐統は切れ切れに声を上げた。
「孔明っ、動……くな……っ、あ……っ」
こらえきれずにもがく爪先で絹がこすれて音を立て、交わった短い荒い息はそれ自体が音曲のように部屋を満たし、あるいは泡沫のように、濃密な空気におしつぶされていく。
「……っ!」
龐統の背中がしなった。体の奥から引きずり出される快感のせいで呼吸すらままならず、溺れる者がようやく水面へたどりついたときのように虚空にむかって唇を開いても、何が楽になるわけでもない。ただ一点へ向かって追い上げられるばかりだ。そしてそれはもうすぐそこにあった。
がくがくと孔明が揺れる。小さく声を上げながら龐統の上に倒れこみ、両手で頬を包み込んだ。熱い。頬に触れる手も、重なった腕も胸も腹も腿も溶け合いそうなほど熱かった。
「……お前が、怖いと言った、理由がわかった」
頬を包む熱い手に龐統は自分の手を重ねた。孔明の眼の中の星はいよいよ輝きを増し、すでに星一つの光を越えた眩さで龐統の眼をくらませる。それは星の満ちた天の輝き。美しく厳しく誰も住まない夜の光だ。
腕を伸ばし、頭を抱き寄せてその目に唇を押し当てた。同時に凄まじい絶頂感が波のように意識をさらおうとする。徒に踏み込めば帰れなくなる、どこかで聞いた言葉が一瞬脳裏をかすめる。目を閉じてこのままこの波に飲まれてしまえばどこへ行き着くのだろう。
だが強く抱きすくめる力が龐統を連れ戻す。
絹の海へ龐統をつなぎとめる。


 目を開けると、孔明が見下ろしていた。穏やかに龐統に向けられた視線から狂おしい光は消えている。
「おかえりなさい」
「……」
龐統には荒い呼吸を鎮めようとするのが限界で、とっさに答える力もなかった。
ただあることにようやく思い至った。
「茘枝だ」
「え?」
「この香り」
「香りって?」
気づいてないのか。瑞々しい酸味を含んだ甘い香りはいつも孔明の周りに漂っている。香でも焚いているのかと思っていたがそうではないらしい。
「棘棘しい殻の中に蜜の滴る果肉を隠しているところは、貴方にこそあてはまるんじゃないですか?」
「わざとそういう言い方をしてるだろう。」
「だってほんとにそうだから。」
子供のような口調とはうらはらに赤い舌がちらりとのぞく。”殻の中”をさぐろうとする指の動きに、龐統の息がまたあがりはじめる。びくびくと反応する身体のあちらこちらを孔明は好き勝手に吸い散らしていく。だが龐統はもうそれを止めるどころではなかった。苦痛に変わる一歩手前、ぎりぎりのところで孔明を感じる。深く、受け入れれば入れるだけ、感覚は鋭くなっていくのに痛みからは遠ざかっていく。目の前の白い首筋に歯を立ててみれば、やはりそれはほのかに甘く、茘枝を思わせた。




「無理しないようにと思って。」
孔明は一見悪意はなさそうに笑っている。憮然としている龐統を見るのが楽しくてしかたがないらしい。
衣服をつけても見えるところに跡を残されては、いくら人目を気にしない性質でも旅はしにくい。
「心配しなくてもすぐ消えますよ。礼記でも読んでればいいじゃないですか。投壺編とか。」
「なんで投壺なんだ。」
「遊びの解説書としてはよくできてますよ。」
たしかに孔明には喪装の歴史とか誰の葬儀は帯は何尺とか、何の儀式のときに何を犠牲にするかという決まりより、矢投げ遊びの事細かな点数表のほうが役に立つのだろう。

 結局、龐統は数日をここで過ごした。地の底であるのに朝になれば日が差し夜には暗くなるのでそのたびに一日と数えたが、地上に出て数年経っていても驚かない。そんな不思議な場所だった。
三日目、明日の朝には発つと告げると、孔明は素直に残念そうな顔をしたが、
「見送りませんよ。早起きできないから。」
そう言って夜具にもぐってしまった。
もともと襄陽を去るのもここへ立ち寄ったのも龐統の都合だ。見送りなどなくても構いはしないが、孔明が最初にふて腐れて見せたきりそこに触れないので、かえって自分の身勝手さを直視してしまう。弱さと迷いを覆い隠そうとする身勝手な行動は、計略とするなら下の下だ。
 それでも離れなければならない。いつか軍師として対するべきは主君の敵であり、己の中の諸葛亮ではないだろう。




 朝になってみると、庵にはもう孔明の姿はなかった。

「孔明は新野へ向かった。」
「君に伝言はないがこれを預かっている。」
童子から受け取った繻子の袋を開けてみると、中には赤紫の果実がいくつか入っていた。今もいできたばかりのように、外殻のとげは鋭いままだ。
龐統の口元を淡い微笑がかすめた。それはいつもの、どこか皮肉な笑みではなく、空をよぎって消えていく翼あるものの影を無心に追うおさなごのような無垢なものだった。






終劇






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