「お怪我はよろしいのですか、張遼将軍。」

澄んだ声で訪ねながら、彼女は騎乗の張遼に近づいてきた。開門前のため降りぬ非礼を詫び、怪我も心配無用と答える間にも、黒瞳は張遼の口中に残る呂布の唾液すら見通す強さで張遼を凝視する。

「張遼将軍の武、たいへん心強く存じます。けれど、貴方がお強くあればあるほど、奉先様は……」

天を真横に貫いて稲光が走り、続いて轟いた雷鳴のせいで貂蝉の言葉は後半聞き取れなかった。


ざぁっと落ちてきた雨粒を顔の前に繊手をかざしてよけ、貂蝉は微笑んだ。

「ご武運を。必ずお戻りくださいませ。たとえ奉先様が変質して貴方の中の呂布奉先が消えてしまっても、私の奉先様にとって、貴方はかけがえのないお方。」

「……貂蝉殿がおられることで、どれほど呂布殿のお心が休まるか知れませぬ。私は命を聞かずに出陣する身、意地でも生きてもどりましょうぞ。」
張遼は自分の短套を肩から外し、無礼を断りながら濡れた貂蝉にかけた。


バシャバシャと水しぶきを跳ね上げながら走ってきた兵卒が、拱手して告げた。
「張遼将軍!敵陣営は雨のため作業を急いでいる模様!曹操本隊が現れる前にこの機に討って出よとの軍師殿のご指示です!」

うなづいて開門と叫ぶと、雨音と雷鳴をしのぐ勢いで鬨の声が上がる。




石段へ戻っている貂蝉へ目をやると、彼女も張遼を見ている。
「強欲だ、私も、貴女も。」
低く呟いて足に力を込め、馬首を門外へ向けた。





 戦闘中に篭城が決まれば、張遼は城には戻らず遊軍になる心算を固めていた。下ヒ城に戻るのは曹操軍との雌雄が決した後になる。
呂布に再び生きて会うことはないかもしれないと思いながらも、貂蝉には生きて戻ると答えた。
平然と嘘まで吐くようになったかと苦笑が漏れる。






敵陣に近づいたところで、陣容を変え挟撃にうつった。
約一万の曹操軍先鋒は、慌てているのは歩兵ばかりで騎馬はすでに態勢を整えている。
右手で握った青龍刀に左手を軽く副え、天も斬れよとばかりに大きく振ると、敵陣はどよめいた。



「駆けよ白鱗、この張文遠を縛るものはもう何もないぞ!」



押し寄せる敵兵を斬り伏せ、薙ぎ払ううちに白馬は紅く染まり、雨がそれを洗い流していく。

ぬかるみに足を取られ、敵味方の別なく混戦模様になってきた戦場を白鱗は疾走する。










 叩きつけるような雨の中、呂布は城壁の上で濡れるに任せながら傍らの軍師に言った。

「見ろ、あそこに張遼がいる。」

幕でもあるかのように雨で視界が閉ざされ、指差す方に何があるのかなど陳宮には皆目わからない。
「わ、私には見えませぬが……」
「そうか。」
「殿、篭城とお決めになるのであれば、張遼将軍を呼び戻さねばなりますまい。さっそく伝令を!」
呂布はうなづいた。

「……陳宮」
「はっ?」
滑らぬよう恐る恐る石段を降りていた陳宮は、呼び止められて振り向いた。
北面に向いたままの呂布の後ろ姿が、紗幕の向こう側にぼんやりと見える。

「戻らぬときは、かまうな。好きにさせておけ。」

「なっ……張遼将軍が叛くとおっしゃるのですか!まさかそのような……!」


足元まで駆け戻ってきた軍師を一瞥すると、呂布は再び豪雨の彼方で舞うようにきらめく青龍刀に目を戻した。

「そうではない。ただ戻らぬような気がするだけだ。」

「……では、その場合も想定して陣を組みなおします。」
無言でうなづく主に拱手し、陳宮は城壁の内側に下りていった。


荒れ狂う空から時折閃く稲妻は、二里も離れた戦場を天地の間に照らし出す。
人馬一体の白い影が疾駆するところに道ができ、雷をまるで恐れず心火のままに血と臓腑と脳漿を撒き散らす青龍刀。



鎧の内側まで雨にしとどに濡れながら、呂布は飽かず眺めていた。








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