散々飲まされて夏侯惇の屋敷を出てみれば、天は厚い雲で覆われ大気が痛いほど冷えている。まだ酒臭い息をほうっと吐いて張遼は愛馬の背に揺られている。

 曹操の性格故か、はじめから曹操配下の将たちは降将の張遼を特別扱いはしなかった。白馬津・官渡の戦を経た今では、昔からの同僚のように相対してくれていることがわかるが、そこに甘えて同列に並ぼうとするほど愚かではないつもりだ。
 一線を引こうとする張遼に、夏侯惇はなにかと声をかける。
張遼は自分のことを面白みのない男だと思い込んでいるので、むしろ夏侯惇の構いっぷりが不思議だった。酒を飲んでいても特に話題を持ち出すわけでもなく、気の利いた相槌が打てるわけでもない。今日も久しぶりに夏侯淵が都に戻ってきたので飲もう、と呼ばれそんな席に自分が加わっていいものかといささか疑念を抱きながら訪ったのだ。
 夏侯惇も曹仁も酔い潰れたあと、夏侯淵にそんなことをそれとなく聞いて見れば、目元の涼やかな将軍は鷹揚に笑った。
「惇兄は張遼をいたく気に入っているらしい。迷惑かもしれんが諦めてくれんか。」
「はあ。」
どう返事をしてよいのかわからず、さりとて黙っているのも無礼であろうと声を出すと、夏侯淵はククク、とこらえきれないような笑い声をもらした。
「はあ、ってお前……」
確かに気に入りたくもなる、と言われても、やはり答えに困る。
「何故、私などを。」
「直感だな。」
「直感ですか。」
「ないか?そういうこと。」
あります、という声にやけに力が入ってしまい、いぶかしげな顔をされた。


 泊まっていけという勧めに、翌日も調練だからとことわって帰途に着いた。
静まり返った年末の街路には猫の仔一匹見当たらず、ひたすら寒い。鼻の頭にひやりとしたものを感じて目を上げると、曇天にちらちらと白いものが舞いはじめている。
自分と自分を乗せた馬以外に生けるものの姿のない世界が、ふんわりと白く覆われていく様を見ても張遼には別段なんの詩情もわかず、いつもより早めに出仕しようと思っただけだった。多少の積雪で愛馬の能力が落ちるわけではないが、足場の悪い道を歩く人間はそうはいかない。いつもよりものそのそと行き来する者達を馬蹄にかけたりしないよう、慎重に進まねばならないのだ。

 角を曲がり、自邸までもう少しのところで道端に黒いものがうずくまっているのに気づいた。
酔っ払いなら凍死は確実だ。一瞥して通り過ぎた張遼はすぐに手綱を返した。馬を降り、半ば駆け足で近づくと、ぐったりと伏せた黒い衣の体を抱き上げる。蒼ざめた顔にかかる髪をかきやるまでもなく、予想が的中したことを知ってうろたえた。
「軍師殿!どうなされた!」
片手をあてた頬は少し土に汚れ、冷え切っている。死んでいるのだろうかと反射的に浮かんだ考えを強く頭を振って払い落とすと、今度は郭嘉を軽く揺さぶった。見たところ外傷もなく、血の匂いもしない。首筋に触れ、脈があることを確認して安堵のあまり膝から力が抜けそうになった。顔と同じく土のついた黒い衣は、本当は黒ではないことを張遼は知っている。夕方、退出するときに郭嘉とすれ違っているのだ。深い青色の袍は、着ている本人が酩酊一歩手前の状態でも凛冽とした印象を保っていた。
脇を通り過ぎたときに、張遼がそれを思い出したのは郭嘉にとって僥倖だったろう。このままなら、あと数刻ももたなかったはずだ。
張遼はとりあえず自分の真綿入りの褶を脱いで郭嘉をくるんだ。そこで、はて、と途方にくれる。
郭嘉の自宅など張遼は知らないし、この都の医家も知らない。しかたなく自邸に運ぶことにした。医者を呼べといえば家人が呼んでくるだろう。
「軍師……郭嘉、郭嘉殿!」
もう一度呼びかけてみると色のない薄い唇がわずかに開いた。
「う……」
「……酒臭いな。」
「うるさい……人の名を、そう、わめかんでくれ……頭が……割れ……」
本当にただ酔っているだけなのか、さっきとはまた別の意味で力が抜けたが、歯の根が合わないほど震えだした体は早急に温めないと危険なことにはかわりはない。釈然としないまま張遼は軍師を馬に乗せ、家に急いだ。


 暗い空のせいで時刻はまるでわからなかったが、明け方だったらしい。すでに起きていた家人になにか体が温まるものを持ってくるように命じて、客用の室に郭嘉を寝かせた。火鉢を三つも持ち込んだ甲斐あって部屋はすぐに暖まった。湯を沸かして顔の汚れを落としているうちにそっと届けられた飲み物は、おろした生姜の汁に熱い湯をくわえたもので、芳香があたりに漂う。一口すすった郭嘉は妙な顔をした。甘かったのかもしれない。
それでも半分ほど飲んだあと、おとなしく目元まで夜具をかけられてうもれたようになっている郭嘉に、張遼は身をかがめて小さな声で言った。
「本当に医者は呼ぶなと?」
それでも頭に響くらしく、郭嘉はぎゅっと目をつぶったままかすかにうなづいた。
「怪我はしてない。世話をかけてすまん。」
割合しおらしい。
「賭場で、大勝ちしたあとに飲みすぎた。うかつだった。」
「……。」
態度はともかく、行動は無頼のそれだった。大金を懐に歩いて帰るところを賭場にいたならず者どもに襲われ、金を奪われたあと、酔いが回って立てなくなったのだと言う。張遼はその方面にはまったく疎いが、身分のある者が嗜む賭け事は、たいてい誰かの屋敷で行われたりするものではないのだろうか。せめて供くらいは連れているものなのでは。
「身ぐるみ剥がれなかっただけ、ましか。」
そうつぶやく様子には、怒りもうらみもない。この男は、何もかもどうでもいいのかもしれない。柄にもなく、張遼は諭すような口調になった。
「まったくです。あなたに何かあれば、殿が嘆かれる。」
返事のかわりに、郭嘉は視線を投げてよこした。星のない夜のような目だった。

 ただ一人のためにつくられた司空軍祭酒という地位。荀ケを上回るといわれる軍才。曹操の懐刀としての評価。
人が望んでも得られない才を持ちながら、何が不満で深酒をし、ごろつきがくだを巻いているような賭場に出入りして商売女を買うのか、疑問に思う者は多い。
張遼の中の郭嘉は「呂布を追い込んだ軍師」として、はるかな高みにある。
それが城内で酩酊しているのを見かけるたびに、自分でも理由のわからないもどかしさを感じていた。
何かしてやれることがあるのではないかと、何の根拠もなくそんなことを考えてしまうことすらあった。
実際はどう声をかけていいのかすらわからずに、ただ見ていただけだというのに。


「軍師殿は戦がしたいのか。」
気がつくと、自然にそう口に出していた。天井に向けられていた郭嘉の目が再び張遼をとらえ、夜具から伸びた手が、張遼の衣をつかむ。次に郭嘉が発した言葉は、この時点では理解しがたい問いだった。
「あんたは寒さに強いだろうな?」
「は?……強いほうだとは思いますが。」
「そうか。」
郭嘉は満足げにひとつうなづくと、手を離して言った。
「少し眠くなってきた。」
「ではゆっくりお休みになられるといい。俺はこれから出仕だが、家の者にはなんでも言いつけてくれ。」
目を閉じた顔は安らかで、青白かった頬にうっすらと赤みがさしているのを確かめてから、張遼は明かりを消した。


 不満などではない。何故、誰も気づかないのか不思議だった。あれは、寂しいのではないか。
呂布のように戦のための戦を望みながらも、郭嘉に呂布のような自由はない。あれほどよく回る頭で、自分がいるべき場所はここではないと常に感じ続けることはどれほどの苦痛だろうか。乾いてひび割れた大地に酒をいくら注いだところで、恵みになどなりはしないのだ。
 張遼は息をついた。脳裏の荒野に気をとられ、出仕の支度をする手も止まりがちになる。ふと、袖口のしわに目が留まった。寒さに強いかと聞かれたときの郭嘉からは、確かな意志の力を感じた。そんなことを聞く郭嘉の意図はわからないにしても、張遼はつかの間感じたその力にすがる思いだった。このまま郭嘉が泥のような日々に流されるわけがないと信じたい。

 まだ自分は、誰かに最強であることを求めようとしている。
張遼の中に、七年前の白門楼を見上げ続けている自分がいる。


 外に出てみると雪はもうやんでいて、低く垂れ込めた雲の層を貫くように幾筋かの光が射しこみ、屋根や道や放置された荷車までも薄ぼんやりとした光の膜で包む。どこか現実味のない景色は、張遼の心をわずかながら明るいほうへ向けた。踏み荒らされる前の雪に覆われた街路を、馬蹄は力強く踏みしめて進んでいった。