午の刻の銅鑼が鳴った。自分があずかる騎馬軍の調練中だった張遼は、曹操に軍の仕上がり具合を報告にいく予定になっていることを副官に告げて調練場を出た。愛馬を馬丁に預け、一応ホコリやゴミなどを手で払ってから本殿への階を登り始めたが、何やら頭上の空気がせわしない。登りながらそれとなく辺りをうかがうと、探るまでもなく原因がわかった。


 荀ケがうろうろうろうろ動き回っている。柱によりかかったと思えばくるりと向き直って蹴りはじめ、かと思うと両手を後ろで組んで肩を落とし柱のまわりをぐるぐる回る。何か起こったのかもしれないが、張遼が役に立てる事であれば呼ばれるはずなので、余計な口はきかずにいくことにして回廊へ入りかけたところを、いきなり駆け寄ってきた荀ケに袖をつかんで引き止められた。
「張遼将軍!ちょっとよろしいか。」
「何でしょうか。」
必死の形相に押された張遼がそう答えると、荀ケはあたりを見回して壁際の柱の影に張遼を手招きした。仕方なくついていくと、荀ケは小声で話し出した。
「郭嘉が昨日から家に帰ってないんだけどさ」
「ああ、それは……」
「いやそれだけじゃないんだよ!あのね、今朝早く、古着屋にやたらと上等な衣類だの小物だのを持ち込んだごろつきがいてさ、店から通報があったんだよ。」
そんな仕組みがあるのかと、張遼は少し驚いた。後で聞いた話では、市内の盗品を扱う店はほぼ劉曄の管理下にあり、誰が何を持ち込んだか逐一報告させるらしい。
「でね、それを劉曄が確認して知らせてきたんだけど……」
じわっと潤んだ荀ケの目をみて、張遼は非常に嫌な予感がした。
「郭嘉が昨日着てた上着だったんだよ!」
「……」
まずいよ、これはまずいよ、とこめかみに汗をにじませて呟きだした荀ケに、張遼はつとめて穏やかに声をかけた。
「郭軍師はご無事です。」
「ただの期待や気休めじゃ事態は進展しない。もうそいつらは捕まえて荀攸が事情聴取しているが、物取りを装った暗殺やなにかほかの謀の可能性もある。警備隊で手に負えない場合は張遼将軍に出てもら……は?何?」
考えを巡らせすぎて外部の声が届くのに時間がかかったらしく、荀ケはひとしきりしゃべってから聞き返した。
「ですから、私が拾って……もといお連れして、拙宅でおやすみいただきました。今頃はもうご自宅にお戻りかと思いますが。」
「はあああ?!」


 夏候惇の屋敷での酒宴から帰る途中で、物盗りに襲われて雪の中に倒れていた賭場帰りの郭嘉を見つけ、家に運んで手当てをした一部始終を淡々と話すと、荀ケは額に手を当てて言った。
「ちょっ……ちょっと、ちょっと待って、整理するしていいかな張遼将軍。つまり、郭嘉が襲われたのは確かなわけだね?」
「おそらく店に現れたという者どもだと。」
「でもそれは陰謀なんかじゃなく、ただ博打で勝った金や上着を盗られただけ?本当にそうだと断言できるかい?」
「危害を加えるつもりがあれば、容易いものです。意識のある状態であえて路面に放置して去ったということは、積極的に命を奪うつもりはなかったからだと考えられます。」
「なるほど。ああもう人騒がせだなあ!張遼将軍もそういうことはすぐに教えてくれなきゃあ!」
申し訳なかった、と張遼は素直に頭を下げた。普段の郭嘉の素行があれなので、最高位の軍師の襲撃事件を軽く考えていた節がある。自分が予想しないほどの人数がそのために動いていたらしいとなれば、詫びの一つもいれるのは当然だ。
「ごめん、今のはやつあたり。あいつさあ、やってることめちゃくちゃなんだよ。」
へなへなと荀ケはしゃがみ込んだ。膝に乗せた両腕に顔を伏せ、
「よかった……無事で。ほんとに……ほんとに心配したよもう……。」
かすかに鼻をすする音がしたあと、荀ケは袖で顔をぬぐいながら立ち上がって言った。
「こんなことをあなたに尋ねるのもおかしな話だが、あいつはもう酔いから覚めないだろうか。」
張遼はまるで空洞のようだった郭嘉の目を思い出す。その奥に垣間見える苛立ち乾いた魂と、衣をつかんだ指の意外な力強さを。
あれはあきらめた人間の力ではなかった。
「私は、決してそうではないと信じています。」
「……ありがとう。」
それから、と荀ケは照れくさそうに言った。

「私と話すとき膝をついて目線を合わせてくれなくても大丈夫だよ。」

「失礼しました。」

張遼は無意識にかがんでいたのだった。これから曹操に報告に行く旨を告げてその場を去ろうとすると、荀ケが思いついたように背後から声をかけた。
「それにしても、倒れてるのが郭嘉だとよく気づいたね。暗かっただろうに。」


うまく答えられなかった。自分でも理由などわからないからだ。
最初に目に入ったものは見覚えのある郭嘉の袍であったことは確かだ。着る物など服も鎧も丈夫であればいいし、人の着ているものに興味を持ったことなどこれまでなかった張遼が、なぜ郭嘉の恰好を―――ふらついた足どりの後姿を記憶に焼き付けていたのか、わかるものならいっそその優秀な頭脳に教えてほしい。

 とっさに言いつくろうこともできずに曹操の元へ向かったが、己の中に説明できない部分を抱えたまま曹操の前に立つのは気が進まないことだった。




 年が明け、郭嘉が奏上した北伐が勅許を得ると、張遼は遠征軍の一人として抜擢された。雪中行軍の訓練や馬の調整などでにわかに忙しくなった張遼は、ある日郭嘉に呼び出されて北伐のために設けられた執務室へ入った。
そう狭い部屋でもないのだが、広げた地図が何枚も天井から吊るされており、三方の壁際にぎっしりと書物や竹簡などが積み上げられているので圧迫感がある。機密を扱うためか窓はなく、天井近くに設けられた通風孔からわずかに外気が入ってきて灯りを揺らしている。謀や知略が濃密に渦を巻いているようで息苦しい。落ち着かない場所だと張遼は思った。

ひとわたり見回しても郭嘉の姿はない。

「郭軍師。」

声をかけると、意外に近いところから返事があった。地図の影にいて張遼からは見えなかったのだ。

「ああ、呼び立ててすまんな。行軍についていくつか確認しておきたいことがあるんだが、これを全部持ち運ぶわけにもいかない。」
これ、というところで郭嘉は辺りの地図やら簡冊やらを指し、その辺に適当に座ってくれと言いながらガタガタと音を立てて小さめの卓を移動させてきた。今日は郭嘉から酒の匂いはしていない。顔色が少し蒼く見えるのは、黒地銀糸の襟元のせいだろう。
 こうして近いところで郭嘉を見るのは、路上で拾い上げて以来だった。あの日、張遼が夕刻に帰宅したときには当然ながら郭嘉はもういなかった。夜になってから木樽に封をした極上の酒が届き、これくらいで懲りてなどいないという意思表示に思えて苦笑させられた。
 張遼がそんなことを思い返している間に郭嘉は卓を調え、地図や書付を広げて向かいに座り、まっすぐに顔を上げた。

「先日は世話になった。」
「いや、こちらこそ過分なものを頂戴した。」
「あの酒はいくら飲んでも翌日に響かないからな、将軍も安心して飲んでくれ。」
それはそれとして、と郭嘉はいくぶん恨みがましい顔つきになった。
「荀ケが家まで来て説教をたれていった。正直すぎるのは美徳ではないぞ、張遼将軍。」
「……。」
荀ケが郭嘉の無事を知ってどれほど安堵したかを見ていた身としては、説教くらい一晩中でも聞いてやれという気になる。そしてその気持ちの中には、もし自分が事件を人づてに聞いただけだったなら、という想像が含まれている。
勝手に飛び出して行くわけにもいかず、どこを探していいかもわからず、そもそも張遼が探しに行く筋合いもないのだ。何もできないというのは想像するだけでも恐ろしい苦痛だった。

「さて、本来の用件……の前に今回の遠征の立案と指揮を執るのは私だ。何かあれば、今の内に聞いておきたい。」
あらためてそう言われれば、目の前の男に聞きたいことも言いたいことも山とあるように思えた。古の皇帝が防御のために築き上げた壁を、越えて攻めようという考えがどこから出てくるのか、頑固なのか柔軟なのか、飲んだくれていたときも、ずっと軍略を抱き続けていたのか。
これまで張遼が興味を持った相手は優れた武人だけだった。関羽、夏候惇、曹操、そして呂布。打ち倒せるのか打ち倒されるのか、それのみが武だと思い他者との関係はそこにしか求めなかった。

そうではない。

誰かに関心をもつということは、勝つか負けるかということではない。

「どうした?」
「あんたのことが知りたい。」

その白い額の奥にあるものを知りたい。今見据えているものを知りたい。そのために自分が何をできるのかが知りたい。
一瞬、郭嘉は驚いたように張遼を見た。だがそれは本当に一瞬のことで、何か気に障ったのかと考えるまもなく平静な表情に戻り、それは光栄だと言った。
「私の意志は軍略の中にある。私の思考が知りたければ策を理解してくれればいい。」
張遼は唇を結んでうなづいた。もう下手なことは言うまいという決意の現れだが、傍目には歴戦の武人の貫禄を感じさせる仕草である。

わずかに郭嘉の口元がほころんだ。

「あなたの騎馬隊の力を存分に発揮できる戦になる。期待している。」

存分に。それは郭嘉の望むだけの力を蓄えておかねばならないということだ。いくらでも応えようと張遼は決めた。軍師の剣となり鉾となることは将の務めだ。

「では本題に入ろう。」

白い指が筆を持ち、無造作に地図に朱色の印をいれていく。そこから導き出されるものを読み取ろうと張遼は身を乗り出す。
郭嘉といるうちに、最初に感じた居心地の悪さは霧消してこの室内の空気にすっかりなじんでいる。
そのことに張遼はまだ気づかない。







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