船室はいつになく酒臭い。どこかで水の流れる音がする。ゾロはそれを聞きながら少しうとうとしたが、すぐにどうしようもなく喉の渇きを感じてハンモックから降りた。テーブルに置かれた貝が、ぽうっと淡く光っている。眠っているのはチョッパーとルフィだけで、ウソップは見張りでいない。残る一人の姿もない。またしても肩透かしをくらった気分になり、何か飲もうとキッチンへ向かった。貝の横に置かれている水のボトルは見ないふりだ。
夜明けにはまだ少し間がある。見張り台の下を通ると軽快ないびきが聞こえてきた。
「あ。」
キッチンでは洗い髪のコックがイスで一服していた。薄青いシャツの襟元が湿っている。目覚めたときの水音はシャワーだったらしい。半身ワインを浴びていれば、たしかに洗い流したくもなるだろう。ついでにそのボケたツラを海水で洗ってこいと思いつつ、ゾロはグラスに水を注いだ。背中に視線を感じる。水を一口含んだときにサンジが口を開いた。
「あー……心配かけたな。」
「ぶはっ!」
飲んだばかりの水が逆流してきて溺れそうになる。
「おれ今ちょっと心配したからこれでチャラだな。水こぼすなよ、もったいねェ。」
ふうっと煙を吐きだす余裕たっぷりの態度に、腹立ちがこみ上げてきた。
「してねェ。」
ほんの一瞬だけ、何があったと身構えはしたものの。立ち上る強烈なアルコール臭にすぐに気づいた。ナミの説明によれば、飲み比べ20人抜きを難なくなしとげた彼女にインチキではないかと言いがかりをつけた阿呆がいたらしい。こともあろうに、
『女がそんなに飲めるわけねェ!本当は男なんじゃねェのか?!』
……と。たまたまその場に戻ってきたコックが相手を蹴り殺しそうになるのを、ナミ・ウソップ・チョッパーの三人がかりで押しとどめ、なぜかその男とサンジの飲み比べになった。ワインは、激怒しているコックの頭を冷やすためあわてた船医が浴びせた。
『水だと思ったんだよ……。』
気づけよ、と突っ込みつつも落ち込むチョッパーを誰も叱れない。
「下戸が飲み比べて負けてりゃ世話ねェよ。」
「だれが下戸だ!」
語気は強いが、時刻を気にしてかサンジの声は小さい。
「おまえが血相変えてたってこたァ、ちゃんと聞いてんだぞエロマリモ。ウソップが教えてくれたからな。」
「そりゃウソだろ。」
言い抜けられないものかと思ってとりあえず口にした言葉だったが、サンジの返答はさらにその上だった。
「はは、人選間違ったな。ナミさんに聞いたって言やぁよかった。そうだよなー、ウソップじゃなぁ。」
「カマかけやがったなテメェ!」
サンジが笑い出した。右手にはさんだ煙草から灰が落ちそうになるほど体を揺らして笑っている。ゾロはそこではじめて自爆したことに気づいた。
「ったく退屈しねェよ、このエロマリモは。」
笑い声をさえぎるように、だん!と音を立ててグラスがテーブルに置かれた。縦に一筋、ひびがはいっている。
「いっつもそうやって人を小馬鹿にしやがって、そんなに楽しいか。」
すうっと笑みが消え、
「おまえが勝ち負けにこだわりすぎなんだよ。」
「勝ち負け?」
飲み比べの話かと思ったが違うようだった。短くなった煙草を消し、サンジは立ち上がった。
「惚れたら負けだとか思ってんじゃねェのか?」
真顔でそんなこと言われても、とゾロは思った。以前もこんなことがあったような気がする。夜中のキッチンは鬼門だ。だいたい言葉でのやりとりを本当に苦手とする自分にとって、この男の弁舌は手に余る。なくしたくないと思うことも負けのうちに入るんだろうか。
そして、そんな煩悶もおそらく見透かされている。
サンジは扉へ向かって歩いていく。
その襟首をつかんで引きずり倒したいという激情がゾロの中で渦を巻く。
出て行くのかと思ったが、サンジはドアを背にゾロへ向き直った。
唇がゆっくりと動く。
「……負ける覚悟があンなら、来いよ。」
かすかに濡れた青い目がゾロを射抜く。そして彼はまたしても初めて気づくのだ。
「おれの負けだって決まったもんでもねェだろう。」
手首をつかんで引き寄せた身体はしなやかで、勝てる見込みはさらさらないが。
end