夕食の後片付けを終え、水滴もきれいに拭き取ったシンクを満足げに眺め、サンジは甲板に出た。手すりに背を預け、タバコをくわえて火をつける。深く吸ってから上を向いて吐き出した煙は、風に吹かれて見張り台のほうへ流れていった。夜なのでそこに誰が座っているかなど見えはしないが、サンジはあらかじめ知っていた。
今夜はゾロの当番なのだ。
寝る前になにか差し入れしてやるかと考えていると、甲板へあがってくる軽い靴音が聞こえた。
「ロビンちゃん?」
「よくわかるのね。」
なびく髪を片手で押さえ、ロビンが歩いてきた。サンジは左手を海へむけ、
「そりゃもうね。ごらん、今夜の海は貴女の瞳と同じ色をしている。」
「夜だもの。ところでワインが一杯欲しいんだけど、飲んでいいものを教えてもらえるかしら?」
「お注ぎしましょう、レディ。」


 磨かれたグラスは赤ワインで満たされた。サンジは冷蔵庫から取り出したポテトサラダにカレー粉を一振りして混ぜ、ロビンの前に置くと、鍋を弱火に掛けた。
「ありがとう。……まだなにか作るの?」
「スープをあっためるだけだよ。今夜の見張りはマリモマンだからさ、見にいかねェと寝てるかもしれねェだろ。」
「船長さんが全部飲んじゃったんじゃなかったかしら?」
ロビンの問いかけに、コックはレードルを動かす手をとめないまま答える。
「最初に取り分けとくのさ。あの船長はあればあるだけ食っちまうんだ。」


 温められたコンソメの香りがキッチンに漂いだした。サンジはゆっくりと具沢山のスープをかき混ぜながらロビンに声をかけた。
「この船の居心地は?」
「とてもいいわ。敵だった私をこんなにあっさり受け入れていいのかと、こっちが心配になるくらいよ。」
「はは、あいつら何も考えてねェから。」
「あなたは?」
ロビンが立ち上がる気配がした。
「美しい女性は何人加わっても大歓迎ですよ。」
「お姫様から暗殺者まで?Mr.プリンス。」
サンジが振り向くと、ロビンの目が思いのほか間近で彼を見つめていた。
「え……えっと、あれ?ばれてたっけ?まァ今更どうでもいいことだけどさ。」
「自分が起こした騒ぎには、野次馬の顔で加わるものよ。レインベースの橋が落ちたときにあなたを見たわ。」
「ありがとう、教訓にするよ。」
軽く答えても、女は微笑したまま目線を彼の顔から外さない。
「ロビンちゃん……?」
「さっき、居心地は上々だと言ったけど」
彼らの距離はもう胸がふれそうなほど近くなっていた。
「あえて言えば少し落ち着かない。代償を払わず船に乗ったことはないから。」
後ろに下がろうとしてもシンクが邪魔をする。押し戻そうとしたサンジの手首を、シンクに咲いたしなやかな手がつなぎとめた。男の力で振りほどこうと思えば簡単にそうできそうな力の入れ具合は、男が逆らわないのをわかっているからだと思われた。

 願ってもない状況か、虎のあぎとか。サンジはかろうじて声を出すことができた。
「た、退屈しのぎならガキ軍団がいくらでもお相手す……」
冷たい美貌の冷たい唇は、彼の唇を軽くかすっただけで離れていった。

 半分残っていたグラスの中身を喉をさらして飲み干すと、ロビンは呆然としているサンジを見て言った。
「それほど失礼じゃないつもりよ。ワインごちそうさま。」

“それ”が退屈しのぎという言葉を指すことにサンジが気づいたとき、キッチンにいるのはもう彼一人きりだった。
「あ!鍋!」
スープはほどよい熱々加減で、あわてて皿に移そうとしてかかった滴は手首に赤く痕をのこした。さっきまでそこをつかんでいた白い手の感触を思い出し、サンジは身震いする。ふつふつとわいてくるのは、色情ではなく畏怖に近い感情だった。自分が生まれる前から海賊として生きてきた彼女が、どんな代償を海賊どもに与えてきたのかはおおよそ見当がつくが、『美しい女』であることは彼女にとって武器でこそあれ、決してうとましいことではなかったのだろう。
あの目と手を振り解ける男はそうはいない。

 スープの入った皿とスプーンをかごに入れて、こぼさぬよう細心の注意を払って甲板を歩いた。見張り台の剣士は接近するコックに気づいたらしく、身を起こす人影が下にいるサンジから見える。ゆっくり登っていくと、酒瓶を抱えた剣士が無愛想に出迎えた。
「起きてたか。感心感心。」
「何言ってやがる。……テメェはなんかあったのか。」
籠から皿を取り出す手が、一瞬ぴくりと止まる。
「……なんかって何がだよ。」

 夜は完全な闇ではない。間近な相手の表情は割りに判別できるものなのだ。
ゾロは、胡乱な顔でサンジを見た。

「負け試合のあとみてェなツラだ。」





END