秋の夕方、益田が神田の事務所に戻ると客がきていた。客といっても依頼人ではなく、榎木津の下僕の小説家がぽつんとソファにかけているだけだ。着いたばかりらしく、台所では和寅がコーヒーを淹れていた。挨拶を交わしたあと、益田は関口の隣に座って領収書の整理を始めた。この事務所には益田の机はないので、こういった作業はすべて応接用のテーブルで行われる。不便でしかたない。
事務所の奥の扉が開いた。
一気に空気が躁になる。
「サル!遅いじゃないかッ!僕は待ちくたびれて寝てしまったぞ。」
今日の探偵は、濃い紫の絹のシャツに黒いズボンという怪しい風体だった。下品一歩手前の色あわせが、益田に先日酒を酌み交わした司を思い出させた。寝起きの探偵は大きな目を細めて益田の頭上三寸ばかり上を見る。
「……キクちゃんじゃないか。ふん。このカマめ。また調査なんかしてきたんだろう。」
どかどか歩いて向かい合ったソファにどっかり身をしずめ、今度は関口の顔を見た。胡乱な小説家は、ちょうど和寅が運んできたコーヒーを口にして、顔を引きつらせたところだった。熱かったらしい。
「変な顔だな。今変な顔をしたぞ。」
「ほっといてくださいよ。二度も言われなくてもわかってますよ。」
甚だ自虐的ともいえる答えであり、最後のほうはもごもごと口の中でつぶやいているに近いから、恐ろしいほど卑屈な印象を与える。
――この人もなあ……
益田は、コーヒーをすすりながら思った。
――もう少しハキハキしゃべって胸張って歩けば、印象変わるのになあ。
だがもしも関口がそうなってしまったら、榎木津の次のお守り役は自分になるかもしれず、益田にはそんなリスクを負ってまで関口を人並みにしてやる義理はない。だからその助言が口に出ることはない。
「やけどしたのか!やけどサル!本業をおろそかにしているから……」
――そうなるのだッ!と探偵は高らかに宣言し、関口にびしっと指をつきつけた。
「本業なんて、エノさんだって全うしちゃいないだろうに。益田くんが来てくれなかったら、今頃この探偵事務所はないですよ。」
思わぬところで引き合いに出され、益田は先ほどの自分の打算を少しだけ恥じた。
「ふん、カマオロカごときに世の中は動かせないぞ。宇宙の中心は僕だからな!」
話の軸はすっかりずれている。
「動かそうとも思っちゃいませんよ。僕は力技は苦手ですからね。」
「だからお前はわかっちゃいないって言うんだ、カマオロカ。力があるとかないとか、関係ないだろう。そんなのはどこかの豆腐にでも任せておけばいいんだ!」
益田が首をすくめたとき、ドアにつけられた鈴がカランと鳴った。
「おう待たせたな。豆腐がなんだって?バカ声が道路にまで聞こえてるぞコラ」
白いシャツの袖を肘の上までまくり上げた木場が、汗を拭きながら現れた。どうやら待ち合わせをしていたらしい。
「修ちゃんじゃないか!人語を話す冷蔵庫かと思ったぞ!捕まえて売ってしまうところだった。」
冷蔵庫、と繰り返して吹き出した和寅は、細い目で凶悪ににらまれてあわてて台所へ駆け込んでいった。
「その修ちゃんってのをやめねェかボケ。お前さん、呼び出されたのかい。」
後半は関口に向けられている。返答はいつもながらうん、だかうう、だかよくわからない。
ネクタイをズボンの尻ポケットにつっこんだ頑健な男と、よれたシャツの小男、そして女衒ルックの美麗な男。うさんくさい三人組はどやどやとビルを出て行った。
「ああ静かになった。榎木津さんがいると、領収書で紙飛行機折って飛ばしたりするからなあ。はかどりゃしないよ。」
「何言ってんですか益田君。自分から弟子入りしといて。」
和寅がテーブルの上のカップやら灰皿やらを片付けながら言う。
「先生が下僕の都合なんざ考えるようになった日にゃ、私はお暇いただいてお屋敷に帰りますよ。」
「下僕……」
益田は紙片を重ねる手をとめて思わずつぶやいた。すぐ我に返ったが、和寅は呆けた顔から何かを読み取ったらしい。ため息をつき、親切心から忠告しますがね、と言った。
「あの人は惚れ甲斐のない人ですよう。」
――惚れ甲斐?
軽く切り返そうと思った。おもむろに前髪をかきあげ、その忠告がどれだけ見当違いか思い知らせるような答えを、
答えを――
「そう……ですよねえ……」
ぼんやりと和寅を見ると、なんだか哀れむような目で益田を見かえしてくる。もしかすると慣れているのかもしれない。その予感は次の言葉で裏づけられた。
「顔を見ちゃいけませんよ。わかってても、みーんな騙されます。あのお顔を真っ向から見て平気なのは、ご家族と古本屋の先生と木場さんくらいなもんです。」
――平気なのか
――あの刑事は平気なのか
領収書を束ね、和寅の持った盆の上にぽんと載せて益田は立ち上がった。
「僕はカマじゃないですよ。あんたまでそんなこと言わないでください。」
また明日、と告げてビルから出ると、外はすっかり夜になっていた。そう言えばあの三人はどこへ行ったのか。秘書なら知っているだろうが、聞いてみたところで仕方がない。
この焦燥が鎮まるわけではない。
益田は、風で足元に吹き寄せられてきた新聞紙を思い切り蹴りつけた。
つづく