城に戻ったのは明け方というよりも朝に近い。馬を降り、片手で首筋を撫でながら手綱を引いていくと、女の声が名を呼んだ。
「張遼将軍。お戻りですのね。」
振り向くと、春の朝もやの中に人の形をした牡丹の精がひっそりと佇んでいる。
主君の愛妾に、張遼は迷わず軍礼をする。彼女自身もまた、戦う者であるからだ。
「拠点を一つ潰しておりましたので、遅くなりました。呂布殿はお目覚めですか。」
「先ほどお休みになられたばかりです。」
邪な想像をされかねないことを愛くるしい唇で貂蝉は告げた。
「では後ほど。」
張遼は表情を変えぬまま答えると、手綱を引いて踵を返した。兵糧部隊でもない小さな拠点をいくつ潰したところで戦局は変わらない。わざわざ起こして報告するほどのことでもないと判断し、自邸に戻るつもりだった。
「あなたを待っておられました。」
背後からする思いつめた声音に、張遼は足を止めた。振り向けば、貂蝉が視線をやや彼から外して口を開いた。
「奉先様は、いつも心配でたまらないのです……あなたが、ここを離れて他の地へ行ってしまわれるのではないかと。曹操殿や袁紹殿のもとへ去ってしまわれはしないかと。」
「……何を、馬鹿な。それは誠に呂布殿が?」
相手が男であったなら、肩をつかんで揺さぶっていたかもしれない。それほど張遼には心外な言葉だった。あの武を離れて、天地のどこに己の居場所があるというのか。
義を置き捨て、ただ武を求める餓鬼のようになってしまった自分が、最強の武である呂布の元を離れれば、生きていく価値も意味もなくなる。それだけの覚悟で付き随ってきたというのに。
だが、つかむはずの肩はあまりにたおやかすぎた。
「おっしゃるわけがありません。」
貂蝉は、細い眉をわずかに寄せ、
「いっそあなたに面と向かって乞われればよいのです。ずっと共にあれと。あなたが承知とお応えになれば、あなたの姿がないときでもすぐに眠れますのに。そんなこと、思いつきもしないのです、奉先様は。」
常ならぬ強い口調で言い放った。
「諍いでもなさったのか。殿が貂蝉殿を何よりも大切に思っておられることは、皆が承知しております。」
そう、呂布にとって大切なものは城でも家臣でもなく、ただ裏切りの果てに手にしたこの美女だけなのだと、皆が知っている。
兵を纏め上げる立場の張遼は、それを苦々しく思ったこともあった。
朝もやが晴れてくる。
間近でこちらを見つめている貂蝉は、やはり美しい。張遼が董卓配下の武将として洛陽に駐屯していた頃、高貴な女官も芸妓も等しく董卓に奉仕させられていたが、その折に見たどの女よりも貂蝉は美しかった。
まだ二十歳にもならぬ肌は朝露を含んだようにしっとりと輝き、緩く編まれた黒髪が白く小さな顔をふちどる。
青みがかった桃色の袿をまとった身体は華奢ではあるものの、成熟した女の量感に満ちている。最強の武に愛されているという矜持からくるものか。
いずれにせよ、この美しさは危険極まりないと張遼は思っている。
失っても代わりがきかないものは、人にしろ宝にしろ呂布のようなある意味純粋すぎる男が手にするべきではない。
「私は、欲張りな女です。奉先様は、この貂蝉のすべてが御自分のものであることをお疑いではないのに、張遼殿には指一本触れられないでいらっしゃる。それが悔しくてなりません。」
微笑んだ口元にちらりとのぞく皓歯のあどけなさと、放たれる言葉の格差がかえって妖艶ですらある。
「失礼ながら、女人にはおわかりになり難いこともあろうかと存ずる。呂布殿が我が身を気にかけてくださったのならば、配下として光栄至極。それのみでござる。」
「女だからこそ、わかることもございます。それでも、今はお詫びいたしましょう。お疲れのところを愚かなたわごとでお引きとめして申し訳ございませんでした。ごゆっくりお休みくださいませ。」
貂蝉はうなじが見えるほど深々と頭を下げた。長い袖が翻り、たきしめられた香がかすかに鼻腔をくすぐる。
先ほどの貂蝉の言葉を事情を知らぬものが聞いたなら、この娘をして妬心を抱かせる張遼とはどんな美女かと勘繰るであろう。
呂布が起きているかと思えばこそ、自邸には寄らずまっすぐに居城へ戻ってきたのだが、当てが外れた。一眠りするにも半端な時刻だが、湯浴みのために結局帰宅することにした。騎乗するほどの距離ではないので、張遼はそのまま愛馬と歩く。
主の心境を察するのか、愛馬は鼻を鳴らしながら頬へ擦り付けてきた。
「白鱗」
名を呼べばカカッと蹄が地を打つ。
もういっそ馬であればよかったのだと張遼はつぶやいた。