『張遼!』
呼んでいるのは耳慣れた声だ。だが常に発している傲然たる圧力は消えうせ、須臾の間ふるえすらした。
城内の救護室に充てられた部屋で、兵卒に混じり寝台にかけて医師の手当てを受けている張遼のもとへ、呂布は早足で近づいてきた。冬が近く、室内はしんと冷えているが火の気はない。篭城の可能性に備えて、物資は極端に節減されている。
張遼の足元には血しぶきのかかった胸当てと肩当、兜が置かれている。具足は着けたままで、彼がすぐに戦場へ戻るつもりであることは誰の目にも明らかだった。
『張遼、』
呂布の言葉を遮って肩口を浅く斬られただけだと告げた。何か言おうとした医師は目で黙らせる。
配下の将が戦の最中に半身血まみれで戻った程度で、動揺する姿など見せられたくはない。
誰が死のうと生きようとただ天地に己一人という呂布にこそ、最強の武があると信じて数々の裏切りや不義にも目をつぶり耳を塞いできたものを、今さら他人に執着する様を見せられては、張遼自身が立ち行かぬ。
それは己の弱さゆえだと、ただ呂布に依存しているだけだと承知で張遼は呂布が己の思う呂布奉先であることを望む。
切り口上は呂布の癇に障ったらしい。
『浅い?この傷がか?』
たった今、包帯を巻き終えたばかりの左肩を一瞥すると、呂布は無造作に張遼の腕を取って捻った。
『……ッ!』
激痛に汗が噴き出す。すぐに腕は戻されたが、同時に痛みも消えるわけではない。とっさに言葉が出ない張遼を見下ろして、呂布は気まずそうな顔で言った。
『つまらん意地を張るからだ。誰に斬られた。』
『……夏候惇に。』
『あの片目か。配置を変える様陳宮に言っておく。お前は腕が動くようになるまで城から出るな。』
張遼は激昂した。
『私では力不足だと仰せか!』
押しとどめようとする医師を乱暴につきのけ、気がつくと立ち去りかけた呂布の腕を右手でつかんでいた。
綾織の衣越しでもはっきりと伝わってくる固い筋肉の感触と、温度。
室内は静まり返った。先ほどから固唾を呑んで主君と将軍のやり取りを見ていた兵卒や医師たちが、緊張の極限に達しているのが伝わってくる。この主に言葉で逆らったのみならず力まで行使して、生き残ったものはいない。
まさか張遼を斬りはすまいが、腹立ちまぎれに兵卒の二三人も捻り殺しかねない。
皆、一刻も早くこの場から逃げたい気持ちは山々だが、結局は牽制しあって動けずにいる。
振り返った呂布は、わずかに目を見開いてつかまれた腕と張遼とを交互に見た。普段の張遼からは想像もつかない逆上ぶりに驚いたらしい。怒鳴るでもなく殴るでもなく、じっとそのままでいる。
やがて張遼は手を離しうつむいて言った。
『……ご無礼を。』
頭に上った血はまだ引かないが、衣の裾ならまだしも身体に手をかけるとは不遜以外の何物でもない。
激発した感情をそういう理性で押さえ込めるところに、張遼の本質がある。
『来い。』
上から降ってきた声に顔をあげると、呂布はもう歩き出していた。早足で後を追い、部屋を出たとたん室内の者たちが背後でいっせいに息をついたのがわかった。
大股の呂布に遅れまいと急いだものの、入っていったのはそう離れていない空き部屋だった。がらんとした空間には寝台と衝立程度しかなく、普段は使われていないと思われるその部屋に入るまで変わらぬ勢いだった呂布は、続いて張遼が入ったところで振り向いた。
『もう一度言うぞ、張遼。当分は城の警護にあたれ。』
よもや拒むまい、呂布の目はそう言っていた。しかし張遼は尚も言いつのった。
『武をもって武に仕える者が、それを否定されては……ッ』
『張遼!』
力強い両腕に肩をつかまれ、傷んだ身体を壁に押し付けられて張遼は低くうめいた。
『何故逆らう?!お前は俺のものではないのか?!』
真正面からぶつけられた言葉と純粋な苛立ちを見せる表情に、いったんは鎮まりかけた張遼の感情は再び熱を帯びた。
『あ……』
言えるものか。
あなたのものにすればよろしいなどという、妄言を。
言えるものか。
『貴方の、ものでは……』
魂も肉体もすべてを力で支配されることで、迷いから解き放たれたいだけだ。義だの忠だのという己が奉じるものを捨て去る理由が欲しいだけなのだ。欲望ですらないそんな薄汚い保身からくる言葉を、聞かせられるものか。
『俺のものだと言え、張遼。その口で誓え。』
がらんとした部屋の中に呂布の声が低く響く。
――――――――いっそあなたに面と向かって乞われればよいのです。ずっと共にあれと。
――――――――あなたが承知とお応えになれば、あなたの姿がないときでもすぐに眠れますのに。
――――――――そんなこと、思いつきもしないのです、奉先様は。
痛みのせいか動悸かわからぬ耳鳴りがする。
ただここに在る理由が欲しいだけで、目の前の男に支配されたいと願うなら、口先だけで何とでも言えばいい。
『張遼』
私は貴方のものだ。貴方が私のものになるなら。
その暴も純も武も、すべて私のものになるなら。
それが叶わぬかぎり、
『私は貴方のものにはなれませぬ。』
次の瞬間、噛みつくように唇をふさがれた。
獣が獲物をむさぼるような行為はもはや口付けと呼べるようなものではなく、ともすればこのまま喰らい尽くしてほしいと懇願したくなるほどの陶酔が張遼を襲う。
だが一方で、呂布は変わったと冷静に見つめる自分もいる。
言葉にして心のありかを示すことなど思いもよらなかった頃の呂布は、確かに孤高で美しかった。
逆らえば、張遼ですらためらいなく斬ったはずだ。
その刃に焦がれていた。
誰が死のうと生きようとただ天地に己一人、狂おしいほどその刃に焦がれていた。
絡む舌の生ぬるい体温よりも振り下ろされる刃の冷たさを望んでいた。
―――――張遼は呂布が己の思う呂布奉先であることを望む。
身勝手で幼稚な思考の中で、冷たい刃はその輝きを喪って赤錆びてゆく。
どっと外が騒がしくなり、呂布が顔をあげた。
『北方に敵影!陣を敷く模様!!』
『軍師殿はどうした!』
廊下を往来する兵たちのやりとりがあわただしく交わされる。
肩に乗った呂布の手に自分の手を重ね、最強の武が宿ると信じたその形を覚えてから、張遼はゆっくりと身をかわした。
『……参ります。』
呂布ももう留めようとはしなかった。目を合わさぬように扉を押し開け、救護室で再び鎧を身に着けてから白門へ向かった。
左腕が自由にならねば青龍刀を意のままに操ることはほぼ不可能だが、張遼は討ち死に覚悟で出るわけではなかった。それどころか、心中に朽ちた刃の分も縦横に武器を振るえる予感に高揚している。
兵に引かれてきた白鱗に打ち跨るのと、白門楼に現れた人影に兵たちがいっせいに雄たけびを上げたのとはほぼ同時で、馬上から仰ぎ見れば、重く垂れ込めた空の下を降りてくるのは貂蝉だった。