珍しく夢見が悪かった。
ハンモックから上体を起こして闇の中を透かし見たが、蒸し暑い室内に自分以外の気配はない。
一瞬、悪夢の続きかと思い、じわりと嫌な汗が額に浮いた。
昼間、船は久方ぶりに停泊して乗組員は陸にあがった。買出しと昼食の後でじゃんけんをし、負けたゾロは船番として戻ってきたのだった。船室に彼一人なのは道理である。正確な時刻は分からないが、仲間は皆固い地面の上にいるはずだ。そんなことをすっかり忘れ、一瞬でもうろたえた自分が滑稽で、ゾロは低く笑った。目覚めた直後は鮮明だった悪夢も、もう幾多の夢と同じくかけらさえ思い出せない。
「修行が足りねェか。」
子供でもあるまいし。いや子供のときでさえ、夢におびえたことなどなかった。どうせ自分しか聞く者はいないと思うと、笑いは止まらなくなった。
「……何してんだ?変態。」
いきなり天井が開き、耳慣れた声がする。
「……別になにも。」
不意をつかれた。ますますもって未熟。ゾロは激しく不機嫌になった。デッキを歩いてくる靴音や気配に気づかなければ、船番として無能だ。そんな芸当ができるのはそうはいない事実すら、言い訳にはならない。天井を見上げると、夕暮れの空を背景にサンジが立っている。
「驚かそうと思ったのに、逆にたまげた。なんで一人で笑ってんだよ。」
「テメェに関係ねェよ。何しに戻ってきやがった。」
かすかに煙草の匂いがする。
「飯。いらねェならオレは街に戻るぞ。」
「食う。」
空気のこもった船室から甲板に上がると、開放感に深呼吸したくなる。はじめから上で寝るべきだったのだとゾロは思った。キッチンから聞こえる調理の音に反応して、腹が素直に鳴る。一度意識すると、恐ろしいほどの空腹感が襲ってきた。
勢いよくキッチンに入っていっても、鍋をあおるコックは振り向きもしない。
「遅ェよ、さっさと座れ。あ、手ェ洗えよ。」
「どっちなんだよ。」
半ば無意識に言い返しつつ、言われたとおり手を洗ってイスにかけると、絶妙なタイミングで皿が並んだ。
「あ?お前は?」
炒め物とあんかけ肉団子と麺の夕飯は、ゾロの分しかテーブルにない。食ってきた、と答えたサンジはゾロの向かいに座り、グラスになみなみと注いだ麦酒を一気に飲み干した。
「食ってきたけどな、あれじゃ食材がかわいそうだ。ウロコもワタも取っちまって、うまいとこみんな捨ててやがる。」
ゾロは無心に肉団子をほおばっている。話を聞いていないわけではないのだが、どうしても意識の90%以上が食べるほうにむいてしまうのだ。サンジもそれはよくわかっているらしく、相づちも求めない。
「なんとなく入る前にやーな予感がしてたんだけどよ。だからってオマエ、お姐さんたちが待ち構えてるような店にナミさんとロビンちゃん連れて入れねぇだろ。両方に失礼だ。それにしたって、あそこまで火ィ入れるか?普通。身がぱさぱさになっちまって、スープで流し込む状態だぜ?」
麺の最後の一口をすすりこんだゾロは、やっとサンジの饒舌にこたえをかえす余裕ができた。
「でも食ったんだろ?」
「ったりめェだ!残すかアホ!」
人一倍味がわかるくせに、人一倍食べ物を粗末にできないコックの業である。だからゾロはあくびまじりに言った。
「オレに当たんなよ。あー腹いっぱいになったら眠くなった。」
「一人で笑ってりゃ腹も減るだろうからな。握り飯おいとくから、笑い疲れたら食え。」
真顔で言われてむせた。見られたのがウソップやチョッパーならストレートに気味悪がるだろうし、ルフィならうまいものを食ってるに違いないと言うだろう。そこへいくと、サンジは少しわかりにくい。確かに言えることは、決して心配されてはいないということだけだった。
「コラ。起きろマリモ。あっという間に寝てんじゃねェ。」
容赦なく揺さぶられて目が覚めた。
「お。飯か。」
「オマエそれ、冗談だったら全然おもしろくねェからな。オレはもう街に戻るから、しっかり船番してろよ。」
サンジは眼鏡の奥からまだ半分寝ているゾロをにらみ、白いシャツにネクタイを締めなおしている。
「戻るのか。」
「カレー50人前食ったらタダとか、飲み比べ20人抜きでタダとか、すげェ挑戦的なイベントがあってよ……。」
カレーに挑戦する船長はどうでもいいが、
「ナミさんが酔っ払っちまったら、無事にここまで連れ帰ってくるのはオレ以外にいないからな。」
にへっと笑う顔に、ゾロは心底アホかという視線を送った。
「あの女は底なしだ。酔わせてどうこうなんて考えるだけ無駄だぞ。」
「テメェと一緒にすんな!色欲剣士!」
ゾロの鼻先5mmのところを、革靴のつま先がかすめた。風圧で鼻の皮がむけそうだった。
「オレはナミさんにたいしてそういう卑怯くさい真似は考えたこたァねェよ。オマエと違って。」
「四六時中色ボケしてんのはテメェだろうがヘボコック!」
キッチンを出ようとしていた背中が、ピクッと強張った。
「……なんだと?」
「耳までボケてんのか。」
わざと顔を見ずに言うと、案の定、サンジは荒っぽい靴音を立てて戻ってきた。わかりにくいのか扱いやすいのか、ゾロは笑い出しそうになる。
「わかった。オマエがどうしてもエロエロ煩悩剣士であることを認めたくないってんなら、オレにも考えがある。」
サンジはおもむろにゾロの隣に座ると、締めなおしたばかりのネクタイをゆるめた。
「オマエがこれから10分間勃たねェままでいたら、オレは発言を撤回する。もうエロ剣士とか変態とか露出腹巻とか言わねェ。」
「露出腹巻ってのはなんだよ?!」
「もちろんオレはオマエに触らない。」
「何がしてェのかよくわかんねェけどな……」
そのあと、自分が言おうとした言葉をゾロは思い出すことができなかった。サンジの手元をみて混乱し、納得し、頭の中が
「アホかーーーーー!」
という思いでいっぱいになってしまったからだった。
サンジは料理の前に手を洗うくらい自然な動作でカチャカチャとベルトをはずし、ファスナーをおろし、下着の中に右手を突っ込んでいた。まだやわらかいペニスを取り出すと、左手を添えてゆっくりしごきながら横目でゾロを見、凶悪な顔で笑った。
「10分間だからな。」
「反則だろ、そりゃあよ。」
「……」
「やっぱりアホだな、誰がそんなんで」
「……んっ……」
「だあッッッ!!!」
サンジの意図を察してからずっと背中を向けていたゾロだったが、微妙な鼻声に思わず立ち上がり、なおかつ振り向いてしまった。10分どころか5分と経っていない。
「んん……っ」
サンジはシャツのすそをくわえ、かすかに頬を紅潮させながら手を動かしていた。長い指が先端をこするたびに閉じたまぶたが震えているのが、眼鏡越しに見える。引き締まった下腹や体液で光る指先が一度にゾロの目に飛び込んできて、彼の脳内で好き勝手に暴れまわった。なぜ今自分とサンジがこんな状況なのか、ほんの数分前のやりとりはグランドラインの彼方に光速で吹っ飛んでいった。
「おい。そこのアホ。やらせろ。」
自分の耳にすらかなり切羽詰って聞こえる声音に、サンジが薄目をあける。青い目が潤んでいる。
「やっぱり……クソエロ野郎じゃねえか……」